第一三七編 The day after Valentine③



「おーい小野おのっち。これ三番テーブルの分なー」

「はいはい」

「はいは一回でよろしいー」


 母親のようなことを言ってくる店長に「へーい」と返しつつ、俺はトレンチを片手にホールに向かう。

 平日の今日、〝甘色あまいろ〟はいつも通りの客の少なさだ。俺が入ったばかりの頃と比べれば常連さんは増えた方だとは思うのだが、価格設定的に毎日来てくれるような人は依然として少ない。


「お待たせしました。こちらチーズケーキとカフェラテになります。ごゆっくりどうぞ」


 テーブル席に着いている客に染み付いた動作で一礼して、キッチンの方へと戻る。フロアの掃除はパートのおばちゃんたちが終わらせて帰ったので、後はキッチン清掃と皿洗いくらいか。


「……」


 途中でちらりと空いた一席――七番テーブルの方を見る。

 この数週間、〝彼女〟が一度も座っていない席を。


「(……今日も来ねえ……いや、来るはずないか……)」


 勉強会のあの日――七海未来ななみみくに突然〝契約〟をお仕舞いにされてから、俺は彼女と一度も言葉を交わしていない。というより、ほとんど彼女を見掛けなくなった。

 久世くせが言うにはあまり学校にも来ていないらしい。……〝らしい〟というのは、俺が自分で確かめに行ったことが一度もないからだ。

 もちろん、もう一度話をしたいと思わなかったわけではない。昼休みの屋上で一人で居るだろう彼女の元へ赴こうと何度も考えた。

 けれど――結局俺の足は動かなかった。


『――貴方の存在は、私にとってなんの利点メリットもないからよ』


 あの冷たい一撃は、未だに俺の中に突き立ったままだ。

 もう一度話に行ったところで、あいつの迷惑になるだけ。それならこのままでいた方がいいんじゃないかという考えが脳を支配する。

 怖かった。今さらになって、彼女のが。

 他人ひとに近寄られたくない彼女が周囲に向けるような無感情で無機質な小野悠真じぶんに向けられることを想像すると、なぜかどうしようもなく怖かったのだ。


 俺はいつの間にか、七海と〝友だち〟にでもなったつもりでいたのだろうか。

 彼女と過ごすうちに、自分は彼女に認められているのだという勘違いでもしていたのだろうか。

 実際は、彼女にとっての俺などただの〝契約〟関係に過ぎなかったというのに。

 頼りたいだけ頼って、自分は彼女になにもしてやれなかったというのに。

 そのくせ勝手に〝絆〟めいたものを感じるなど、迷惑極まりない話である。


「(……せめて、世話になった礼くらいは言いたかったな……)」


 勉強会以来、ずっと繰り返している思考を無理やり切り上げると、ふと俺の視界にフロアの壁面に貼られている手書きのポスターが飛び込んできた。

 一週間ほど前に店長の指示で桃華ももかが書き上げた、明後日あさってのバレンタインデー限定チョコケーキの予約販売告知である。

 店内だけでなく店の外にも貼り出されているものなのだが、クリスマスの時と同様になかなかの好評を博していた。決して安いわけではないが、だからこそ贈答用として〝甘色〟のケーキを選ぶという人も少なくないようだ。


「(バレンタイン……桃華は久世くせにチョコを渡すつもりなのか……?)」


 俺はその辺りのことをまったく把握できていない。桃華の恋を応援する立場にありながら情けない話だが、しかしバレンタインについては俺にしてやれることがほとんどないのだ。

 そもそも男女間で〝バレンタインチョコを贈る〟という行為はそれ自体が軽い告白みたいなもの。

 もちろん〝義理チョコ〟や〝友チョコ〟なるものがあるのは知っているが、それでもどうでもいい男にそれらを渡す女などいないだろう。……現に俺は、義理チョコすら貰ったことがない。


 そう考えると、桃華が久世にチョコレートを贈るかどうかは非常に微妙なところだ。

 ようやく久世と二人でも緊張せずに話せるようになったとはいえ、基本恋愛ごとに関しては臆病者チキンな桃華に「チョコレートを渡す」というハイレベルな選択肢がとれるだろうか。


 俺は無理に贈る必要はないとも思っている。

 学年末試験の結果いかんでは、来年度は久世と桃華が同じクラスになれる確率は高い。必然的に、二人がより親しくなれる機会だって増えるだろう。

 であれば、現状誰とも付き合うつもりがない久世に無理にチョコを贈るメリットはそこまで大きくない。いや、もちろん贈った方が恋愛的に有利だとは思うが。


「(……まあチョコレートを渡すにしろ渡さないにしろ、今回は俺の出番はないよなぁ)」


 俺は表だって桃華の恋を応援しているわけではないので、こういった露骨な恋愛イベントにおいては役立たずもいいところだ。

 出来ることと言えば、久世の好みのチョコレートの味をさり気無く教えてやったりするくらいだろうか。しかし残念ながら今日は久世も桃華もシフトから外れている。

 バレンタインデーは明後日なのでチョコを手作りするにしろ市販のものを贈るにせよ、明日中には用意しなければならない。となると今から久世の好みを聞き出して桃華に伝えるというのは流石に無理があるだろう。


「(もっと早いうちに聞いとくべきだったな……。あっ、そうだ、もしかしたら七海なら知ってるかも――)」


 そこまで考えて、俺はハッとする。


「(……馬鹿か俺は)」


 以前久世の好みのタイプを教えて貰った時のように、七海から情報を得ようと考えてしまった自分に嫌気が差して、俺はふるふると頭を振った。

 ……改めていかに自分があのお嬢様に頼りきりだったかを痛感させられる。思えばあのときも、七海は俺のためにわざわざ誰かから久世の好みを聞き出して――


「(……ん? そういや今さらだけど……七海に久世の好みのタイプとかを教えたのって、誰なんだ?)」


 確か七海は最初から久世の好みを知っていたわけではなく、第三者から情報を聞き出して、それを俺に伝えてくれていたはずだ。

 しかし、よくよく考えると俺はその人物が誰なのかを知らない。というか七海に聞いても教えてくれなかったのだ。


「(誰かと付き合う気がないと公言してる久世の好みを把握してて、かつ七海と知り合いの奴……? どっちかだけでも相当少なそうなのに、この両方の条件を満たす奴なんかいるのか……?)」


 そこまで考えたその時だった。


「――あっ」


 俺の脳裏に一人の人物が浮かび上がったのと同時に、カランカラン、と今時古風な〝甘色〟のドアベルが鳴ったのは。

 その音に、しばらく同じ所で突っ立っていた俺は慌てて入り口まで向かい――そして目を見開く。

 なぜなら、そこにいたのは高級そうなスーツに身を包んだ女性と、今まさに俺が頭に思い浮かべていた相性の悪い中学生。すなわち――


「ほ……本郷ほんごうさんと――七海妹……!?」

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