第一二五編 それぞれの想い(小野悠真の場合)



「――貴方に協力するのは、今日でお仕舞いにさせて貰うわ」


 最初は、何を言われたのか分からなかった。

 なんの脈絡も予兆もなく放たれたその一言に、俺はただ感情が抜け落ちたかのように、呆然と眼前の少女を見つめる。

 月光下にたたずむ彼女は一段と美しく、そしてどこかはかなげだった。


「……な……んで……」


 対する俺の喉から漏れたのは、そんな情けない声だけだ。

 なんでそんなことを言い出したのか。

 どうして突然、そんなことを言うのか。

 なにが原因でその結論に至ったのか。

 聞きたいことだけなら山ほどあるが、今の俺はそれらを正しく言語化出来るような状態ではない。


「……今日一日を通して、思ったわ」


 静かに、七海ななみが口を開く。


「私の存在が、貴方をさせているんじゃないかと」

「……は?」


 意味が分からない。何を言っているんだ?

」とはなんだ? 俺になにか問題があるのか?

 その問題を解決すれば、これまで通り協力してくれるのか?

 無数に頭に浮かぶ疑問は、やはり俺の口から出ていこうとしない。


「私はもう、貴方に協力しない」


 追い打ちを掛けるように、七海がもう一度繰り返す。


「貴方も、もう私の側に居なくていいわ。〝契約〟もお仕舞い。それでいいわね」

「い――いいわけねえだろッ!? ふざけんなッ!?」


 一方的に言いたいことだけ言ってくるりと背中を向けた七海に、俺は夕暮れ時だということも忘れて声を上げた。

 しかし七海はそんな俺に見向きもせず、すたすたと車へ戻っていってしまう。

 それはまるであの日の――初めて学校で彼女に声を掛けたあの日の焼き直しのようだ。


「待てよ! なんでだ!? なんでいきなりそんなこと言うんだよ!? せ、せめて理由を教えろよ!?」

「…………」

「七海ッ!」


 やはり俺の声を無視し、何も答えぬまま車へ乗り込もうとする七海。

 俺はこのまま帰すわけにはいかないと彼女の肩に手を伸ばすが――


「――申し訳ありませんが、お下がりください」

「ッ!?」


 ――横から出てきた本郷ほんごうさんが、俺の腕を掴んで止めた。

 彼女はそのまま、淡々としたトーンで言う。


小野おの様。たとえ貴方であっても、お嬢様への狼藉ろうぜきを見過ごすわけには参りません」

「は、はあ!? なにが狼藉だ! こんな、なんの説明もなくいきなり言われて、納得できるわけ――!」

「……納得のいく理由があればいいのね」


 なんとか本郷さんの手を振りほどこうとする俺に、車の中から七海が言う。

 彼女は静かな、しかし透き通るようないつもの声で――最近は感じなくなっていた無機質な、人形じみた冷たさを伴った瞳で俺を見た。


「――貴方の存在は、私にとってなんの利点メリットもないからよ」

「…………!」


 一撃。

 後頭部を思いきり殴られるような怒号ではなく、心臓を突くかのような鋭い一言に、俺はそれ以上何も言えなくなる。


 なぜならそれは、どうしようもない事実だからだ。

 俺が七海にとって明確な利点メリットを提示できたことなど、おそらくただの一度もない。

 他人ひとに近寄られたくない彼女の側に、ただ居ただけ。そんなのは、別に俺である必要などないはずだ。


 対する俺は、何度彼女を頼っただろう。

 久世くせの情報を聞き出し、急な呼び出しに応じて貰い、クリスマスに救われ、そして挙げ句、今日の勉強会である。

 七海は言いたいことはハッキリと言う性格だ。だから、それでいいのだと、どこか甘えていたのかもしれない。


 ――そんな俺に、七海はずっとうんざりしていたのかもしれない。


「…………本郷。車を出しなさい」

「……お嬢様……」


 もう俺に興味などないと言わんばかりに視線を切って、七海がそう命じる。

 本郷さんは既に抵抗する気力などない俺の腕を下ろして、七海の方を振り返った。

 その横顔は、どうしてか悲痛に歪んでいるように見える。


「……聞こえなかったのかしら。車を出しなさい」

「…………かしこまりました」


 主人の命に頷き、最後に本郷さんが両手で俺の手のひらを包む。

 彼女に目を向けると、その瞳の奥は深い悲しみに濡れているかのようだ。

 ……そういえば俺が七海と〝契約〟を結んだ時、この人は涙を流して喜んでいたっけ。

 それほど前のことでもないのに、まるで遠い昔の出来事のように思い出しながら、俺は喉から絞るようにして声を出す。


「……すみません……」

「っ! ……いえ」


 どうして謝ったのか自分でも分からない俺に、しかし本郷さんは悲しげな笑顔を浮かべた。

 それがどういう意味を含んだ笑みだったのかは分からない。もしかしたら、俺のことを馬鹿な学生子どもだと思ったのかもしれない。

 俺の手を離して一礼すると、本郷さんは車に乗り込んだ。

 高級車の静かなエンジン音が夜の住宅街に響く。


「……」

「……」


 最後に七海と目が合ったような気がしたが、彼女は結局最後まで何も言わないまま、すっと瞳を閉じる。

 走り去っていく車の影を見つめながら、俺はどうしようもない喪失感を抱えて、一人その場に立ち尽くしていた。


 ――ポツポツと、雨が降り始めた。

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