第一二二編 それぞれの想い(久世真太郎の場合)



 七海ななみ邸を出た真太郎しんたろうは、ずっと暖かい部屋に居続けた熱を冷ますかのように、ゆっくりと帰路についていた。

 一月の空を見上げれば、薄い雲の隙間から綺麗な月が覗いている。コート越しの身体を真冬の風が吹き抜けるが、それすらも今の彼には心地よいくらいだった。


「(……まだ、少し熱いな)」


 自らの頬に帯びた熱を感じて、真太郎は苦笑する。その熱は、決して七海邸の最新式であろう暖房設備のせいだけではないと自覚しているからだ。


「(……未来みくとあんなに話したのは、いつぶりだろう……)」


 今日の勉強会における、少なくとも未来の人柄が変わって以来記憶にない会話の数々を思い返す。

 勿論、普通の人が見れば会話にもなっていないような短い返答が大半を占めてはいたが、それでもずっと彼女とまともに話すことが出来ずにいた真太郎からすれば、奇跡のような一日だったのだ。

 それと同時に――一日でもあったのだが。


「――ただいま」


 時間をかけて――といっても一〇分くらいだが――帰宅した彼は、玄関の引き戸を開けつつ中に向けて呼び掛けた。

 父親が健在の頃に購入した中古物件ゆえ、最近引き戸がよくつっかえるような気がする。真太郎がここだけでも修理してもらうべきか、と考えつつそれを直していると、入ってすぐのキッチンから妹の片割れである久世くせ明穂あきほが顔を出した。


「お兄ちゃんお帰りー。思ったより早かったねー?」

「うん、ただいま、明穂」


 玄関の鍵を閉めて脇のハンガーにコートを掛け、脱いだ靴を揃えてから、真太郎はエプロン姿の妹に目を向ける。片手には菜箸が握られていた。


「ごめんね、夕飯の支度任せちゃって……。こんなに早く帰れるなら僕が作れたのに」

「ううん、気にしないでよ。お兄ちゃんはいっつも作ってくれてるんだし」


 それにこの半年で私もそれなりに上達したんだからー、と笑う妹に真太郎は微笑む。


「ありがとう。ところで春菜はるなは?」

「そこで寝てるよー? さっきまで起きてたんだけどね」


 明穂の視線を追ってキッチンの後方、茶の間に置かれている炬燵こたつ布団から顔を覗かせているもう一人の妹、久世春菜を見た。

 へたれた座布団を二つ折りにして枕にしている彼女は、かすかな寝息を立てながら眠りこけている。


「まったく春菜は……明穂一人に夕飯作りを丸投げして……」

「だ、大丈夫だよ。代わりに春菜ちゃんは掃除も洗濯も、お風呂の用意もしてくれたから」

「そうなのかい? だったらいいんだけど」

「うん。あっ、そうだお兄ちゃん。お風呂もう沸いてるから、先に入ってきたら? 春菜ちゃん寝てるし、私も手が離せないから」

「え? ここからは僕が代わるよ? 明穂こそ先に……」

「いーいから。お兄ちゃんは明日もバイトなんだから、たまのお休みくらいはゆっくりして、ね?」

「そ、そうかい? ……ごめんね、ありがとう」


 優しい妹の気遣いにもう一度礼を言って、真太郎は風呂場へと向かう。


「(……明穂、この半年で随分しっかりしたなぁ……)」


 気弱で泣き虫だった彼女の成長を実感し、しみじみと思う。

 たった三つしか離れていない妹たちだが、それでも兄である真太郎からすればいつまで経っても可愛い子どもという印象が強かったのに、だ。

 それが去年の夏――父の病死を経験してから、彼女たちは急激に大人びたように思う。

 妹たちの成長が素直に嬉しいと思う一方で、まだ中学一年生の女の子に辛い思いをさせていると考えると、兄として情けない気分にもなってしまった。

 単なる高校生でしかない真太郎に出来ることなど限られているだろうが、それでも入ったばかりの部活を辞め、真太郎がアルバイトの日の放課後は真っ直ぐ帰って家事をしてくれている彼女たちには、もっと普通の中学生らしくあってほしいと願う自分がいるのだ。


「(……父さんが生きていたら、こんなことにはならなかっただろうな……)」


 分かっている。父子家庭で三人の子を育てるために、父親が無理をして働いてくれていたことは。当然感謝もしている。

 だから真太郎じぶんが部活を辞めたり、アルバイトをしている現状にはなんの文句もない。むしろ懸命に働いていた父に文句を言うなど罰当たりだろう。

 けれどまだまだ子どもの歳でしかない妹たちのことを思えば、感謝ばかりというわけにもいかなかった。父の忙しさを理由に、甘えたい盛りの彼女たちが何かと我慢してくれていたことも知っている。強がりで意地っ張りな長女である春菜などは特にだ。


「――ふう……」


 身体を流し終え、広いとは言えない湯船に身を沈めながら、真太郎は静かに息を吐き出す。

 普段はシャワーで済ます――光熱費節約のためだ――久世家なのだが、週に一回くらいはこうして湯を張ることにしていた。

 妹たちが風呂好きというのが理由の大半だが、それを差し引いてもこうしてゆっくり出来る時間が人間には必要だという真太郎の持論によるものである。

 実際に、こうしてリラックスしていると色んなことをじっくり考えられた。


『――家まで送るわ。乗りなさい』


「…………」


 自然と脳裏をよぎった未来の言葉に、真太郎は静かに湯船の水面に目を落とす。

 そこに映っている男はひどく冴えない、暗い顔をしていた。


「……少しでも長く、小野おのくんと居たかったのかな……」


 我ながら情けない声だと思いながら、反響する風呂場で小さく呟く。

 幼馴染みである七海未来と友人である小野悠真ゆうまが、互いのことをどう思っているかなど真太郎には分からない。

 以前の勉強会の際、本人たち――というか悠真は、自分たちがじゃないと否定していたが……真太郎の目には、あの二人の間に〝絆〟のようなものが見え隠れして仕方がなかった。

 それは今までにという意味でもあり、そして今日一日だけでも痛感させられたことだ。


「(もしかしたら今、小野くんと未来は二人きりで――い、いや、それはないよね。本郷ほんごうさんはともかく、桐山きりやまさんだっているんだし……)」


 自分の中に浮かんだ想像を即座に否定しようと試みるが、それが〝あり得ないこと〟だと断定することは出来なかった。

 そもそも、あの未来が「送るわ」などと言い出しただけで既に驚愕に値する。なんの意味もなく、彼女がそんなことを言うだろうか?

 何かしらの理由があると考えた方が自然なはずだ。そして――その〝理由〟には悠真が関係していると、そう思わずにはいられなかった。


「……敵わない……本当に、敵わないよ……」


 先ほどまでは熱いくらいだったのに、今は顎まで温かい湯に沈めているというのに。

 それでも真太郎はどうしようもない冷えを感じて、一人身体を丸めることしか出来なかった。

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