第一〇四編 屋上の彼女

 錦野にしきのに言われた通り屋上へ向かった桃華ももかは、しかし屋上へ出る鉄扉てっぴの前で二の足を踏んでいた。

 というのも、扉のど真ん中に大きな文字で〝生徒の立ち入り禁止〟と書かれているからだ。


「(ほ……本当にここに七海ななみさんがいるのかなぁ……)」


 基本的に優等生気質な桃華は校則を破ることに対する抵抗が強い。

 特に近年、世間で飛び降り自殺などの例が多くなってきたことも手伝って、面白半分で屋上へ出入りしただけで生活指導室へ呼び出された生徒だっているほどだ。

 といっても別に監視カメラがあるわけでも、誰かが見張っているわけでもない。桃華は知るよしもないが、彼女の親友であるやよいも以前一度屋上へ足を踏み入れたものの、特にバレたりすることもなかった。


「(……と、とりあえず、覗くだけ覗いてみようかな……)」


 鍵の掛かっていない鉄扉を音が立たないようにそーっと押し開け、桃華は扉の隙間から外を覗き込む……が、そこには誰もいないようだった。


「(あ、あれ……? こ、ここじゃないのかな……?)」


 少々困惑しつつも、屋上へ一歩踏み出す桃華。

 鍵が開いていた以上、少なくとも誰かが出入りしていると思ったのだが……単純に教師が鍵を掛け忘れただけなのだろうか。

 そんなことを考えながら恐る恐る歩を進めると――鉄扉の方からは死角となる貯水タンクの影に置かれた古いベンチに、美しい少女が腰掛けているのが見えた。


「あっ……」

「……?」


 思わず声を出してしまった桃華に、静かに本を読んでいたその少女――七海未来みくが顔を上げる。


「…………」

「(な、なんか露骨に面倒くさそうな顔された!?)」


 いつも無表情だと思っていた彼女にいきなりそんな表情かおをされ、密かに大ダメージを受ける桃華。

 しかしせっかく見つけられたのだから、いくら面倒くさそうな顔をされようとも退くわけにはいかない。

 桃華は決心を固めると、「あ、あのっ!」と声を上げた。


「こ……こんにちは、七海さん。お、お一人様でよろしいでしょうか……?」


 記念すべき……かは分からないが、初めて一対一サシで声を掛けられたことにぐっ、と拳を握る。……緊張のあまり喫茶店アルバイトの定型文が出てきてしまっているのだが、桃華本人にその自覚はなかった。


「……ええ。どこかの愚か者が、ちょうど席を外しているから」

「お、おろかもの……?」


 どうやら屋上ここにいたのは彼女だけではなかったらしい。

 よく見れば彼女の腰掛けている四人掛けベンチの片側には、確かに他の誰かがいた形跡が残っている。弁当箱の包みや、潰されたあとの紙パックなどだ。


「……に何か用事かしら?」

「えっ? あっ、いえ。わ、私は七海さんに会いに来ました」


 やはり緊張のせいで英語の直訳のような返答をする桃華に、未来は少しばかり怪訝けげんそうな顔をする。ほとんど面識のない相手から「会いに来た」などという表現を使われたのだから、正常な反応だろう。


「あ、会いに来たというか、ご挨拶に参ったと申しますか……」

「……そういうことね」


 知らない人が見たら明らかに不審な言葉遣いになっている桃華に、しかし聡明な少女はすぐに彼女の言いたいことを察したらしい。

 彼女は小さく息をつきつつ、「気にしなくていいわ」と呟く。


「勉強会に私の家を使うように提案したのは私自身だし、わざわざ挨拶されるようなことではないから」

「えっ……そ、そうなんですか?」

「ええ。小野おのくんは貴女たちの喫茶店で勉強会をするつもりだったようだけれど……それではお店の邪魔になってしまうと思っただけよ」


 実際は、未来が〝甘色あまいろ〟で勉強会をしたくなかったのはもっと別の理由によるものだが、そんなことをほぼ初対面の桃華にいちいち説明するほど、彼女は社交的ではなかった。それにあの喫茶店は土日だけはそれなりに混み合うので、未来の言うことは一応正しい。


「あ、ありがとうございます。そ、その……私たちの喫茶店のために……」

「気にしなくていいと言っているでしょう。ただ場所を提供するだけのことに、いちいちお礼なんて要らないわ」

「す、すみません」


 どこか無機質な未来の言葉に、反射的に謝る桃華。

 比較的コミュニケーション能力に優れる彼女でも、やはりお嬢様である未来との対話にはわずかながらおそれがあるのか、同学年だというのに何故か敬語を使ってしまっている。こういうのは後々溝になってしまうと分かっていても、どうしても気安い口を利くことは出来なかった。


「え、ええっと、それじゃあ私はこれで……失礼します」

「……ええ」


 ビジネスライクな言葉を交わし、屋上から出る桃華。

 貯水タンクの脇を通りすぎて校舎へ続く鉄扉を閉めた瞬間、全身から冷たい汗がどっと溢れ出す。


「ふう~……こ、怖かったあ……」


 ドクドクと鳴る心臓に手を添えつつ、階段を下る。

〝甘色〟で何度も顔を合わせているとはいえ、基本的に未来の対応は何故か彼女と懇意らしい幼馴染みに任せっきりのため、桃華自身は仕事中でさえ二、三回ほどしか話したことがない。学校の中では言うまでもないだろう。

 そのため、ようやく緊張感から解放された桃華は深呼吸をして――そしてむん、と新たに気合いを入れ直す。


「――本当に大事なのは、明日なんだからね……」


 そんな静かな決意の声は、階下から聞こえる昼休みの喧騒の中に飲まれて消えた。

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