第一〇二編 妹と姉と想い人と

「ただいまー……あっ、お姉ちゃん」

「……おかえりなさい。遅かったのね」

「う、うん。ちょっとね」


 バイト上がりの真太郎しんたろうさんと会った後、真っ直ぐに帰宅した私がリビングへ入ると、ちょうどお風呂上がりらしいお姉ちゃんが出迎えてくれた。

 ソファーで髪を拭いている彼女のそばを通り、対面側に腰掛けた私は、はあ……と大袈裟なため息をつく。


「(……やっぱり、真太郎さんの彼女さんってよね……)」


 思い出されるのはあのクリスマスの夜、街でたまたま見かけた真太郎さんと、その隣を歩く女の人の姿だ。

 服部はっとりに調べさせたところ、彼女は真太郎さんの通う高校の同級生であり、そして同じアルバイトをしているバイト仲間なのだという。名前は――桐山桃華きりやまももかさん。


 真太郎さんに恋人が出来たという噂を聞いて、私が一番怪しいと思ったのが彼女だった。いや、厳密には〝他に怪しい人がいなかった〟というのが正直なところだが。

 勿論私とて真太郎さんが色んな女の子から好意を寄せられているのは知っているが、同時に彼の身持ちの堅さもよく知っている。だから真太郎さんが誰かと二人きりでデートをしたという話なんて聞いたこともなかったし、必然的に桐山桃華さんくらいしか怪しい人物が居なかったのである。


「(……だ、だけど予想外だったわ……! 私はてっきり、真太郎さんはまだお姉ちゃんのことを……!)」


 そう考えながら私は、ドライヤーで髪を乾かしているお姉ちゃんの方を見やる。


 ――真太郎さんは、七海未来おねえちゃんに恋をしていた。


 私が初めて真太郎さんに会った時には、もう既にだった。

 真太郎さんはお姉ちゃんのことが好きで、私はそんな真太郎さんのことが好きだったのである。

 だから私は、真太郎さんが未だに恋人を作ろうとしないのは、彼が未だにお姉ちゃんのことを想っているからだと――そう思っていたのに。


「…………」


 私はぎゅうっ、と両の拳を握り締める。

 まだ笑顔を忘れていなかった頃のお姉ちゃんと真太郎さんは、今の彼らとは想像もつかないほど仲が良かった。

 私はそんな二人を見るのが好きだったし、だからたとえ真太郎さんへの恋が叶わなくても良いとさえ思っていた。大好きな姉と大好きな真太郎さんが笑顔でいてくれるなら、それでいいのだと。


 けれど、お姉ちゃんが変わってしまったあの時から、私の考えもまた変化した。

 人との関わりを拒むお姉ちゃんと、そんな彼女をそれでも想い続ける真太郎さん。

 もうかつての二人には戻れないのだと分かっているのに、どちらも幸せになれない〝片想い〟を黙って見ていられるほど、私は物分かりの良い人間ではない。


 以来私は、なんとか真太郎さんを振り向かせようと努力してきた。

 お姉ちゃんへの一途すぎる想いに縛られている彼に、もっと私のことを見てほしかった。

 真太郎さんの、お姉ちゃんへの想いを断ち切らせること。

 それは私が――、越えなければならない〝試練〟の一つだと思っていた。

 ……思っていた、のに。


 ふと顔を上げると、お姉ちゃんはソファーを立っていつもの安物インスタントコーヒーを淹れているところだった。……うちにはもっといいコーヒー豆があるのに、お姉ちゃんは昔からああいう即席のものを好む傾向にある。いやまあ、どうせドバドバ砂糖とかミルクを入れちゃうから、甘ければコーヒー自体の味なんてどうでもいいのかもしれないけれど。

 馬鹿みたいな量の砂糖が投入されていく様子をぼんやりと眺めていると、お姉ちゃんがそんな私に目を向けた。


「……? どうかしたの?」

「えっ? あっ、ううん。なんでもない」

「そう」


 いつも通り、私以外の人が見れば素っ気ないと思われても仕方ない態度で視線を切るお姉ちゃん。

 そんな彼女をやはりぼんやりと眺めて――私はつい思ってしまう。


「(――真太郎さんも、お姉ちゃんのこと嫌いになっちゃったのかな……)」


 私は、今も昔も変わらずお姉ちゃんのことが大好きだ。

 けれど、笑わなくなったお姉ちゃんを陰で悪く言う人がいることも知っている。

 もちろん正面から言われたりはしないだろうけれど、〝顔が可愛いから〟〝能力が高いから〟〝家がお金持ちだから〟――潜在的に彼女をよく思わない人は確かにいて。

 そしてそれは、かつてお姉ちゃんと友達だったはずの子だって決して例外ではなかった。


 だけど真太郎さんだけは、変わらずお姉ちゃんのことを好きでいてくれた。

 ずっと、ずっと、ずっと。私がどんなに必死に振り向かせようとしても、ずっとだ。

 そして私は、そんな真太郎さんにどこか安心感を抱いていたのかもしれない。

 真太郎さんが私に振り向いてくれないということは、同時に彼がまだお姉ちゃんを好きでいてくれている証明だと。


 でも、違ったのだろうか。

 いつまでも笑ってくれない――それどころか自分に対して冷たく接するお姉ちゃんに、真太郎さんもついに愛想を尽かしてしまったのだろうか。

 そう考えると私はとても胸が痛くて、そして怖かった。

 真太郎さんが私に振り向いてくれないことよりも、お姉ちゃんの味方が、理解者が誰もいなくなってしまうことが。

 お姉ちゃんが本当に一人ぼっちになってしまうのではと考えると、怖くて怖くて仕方がなかった。


「(……その桐山桃華っていう人のせいなのかな……)」


 そんな思考に陥りかけた私は、ハッとしたようにぶるぶると頭を振った。


「(い、いや待て、私。ちょ、ちょっと飛躍しすぎよね、うん。そもそも真太郎さんの彼女さんっていうのが桐山桃華さんだと決まったわけでもないんだし!)」


 い、いけないいけない。危うく変な思い込みをしてしまうところだった。

 思い込みだけで人の話を判断するのは二流の人間がすること。一流の人間はちゃんと相手の話を聞いてから結論を下すものだ。やれやれ、どうやら期せずして私が一流であることを証明してしまったようね。

 私がフフン、と静かに得意気な笑みを浮かべていると、それを見たお姉ちゃんがコーヒーをぐるぐるかき混ぜながら不思議そうな顔をしていることに気が付いた。


「(……あっ、そういえば……)」


 コーヒーとお姉ちゃん、という組み合わせを見て、私はふと思い出す。

 それは冬休みの終盤に、真太郎さんが働いている喫茶店で半分偶然、半分意図的に盗み聞いたこと。

 七海別邸うちでお姉ちゃんたちが勉強会をするとかいう話だった。


「(そ、そうだ……! 盗み聞いただけだから記憶が曖昧だけど、確かその勉強会には例の桐山桃華さんも参加すると言っていたはず……! だったらその時、本人に直接聞けばいいのよ! 『真太郎さんとお付き合いしてるのはあなたですか?』って!)」


 突然舞い降りたその名案に、一人ウンウンと頷く私。

 そんな私に対して、お姉ちゃんがなんだか変な子を見るような目をしていたのは……気のせいだと思いたい。

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