第一〇〇編 七海妹と噂話

 バイト上がりに突如として現れたその少女を見て、俺は間違いない、と確信する。

 確かに、以前〝甘色あまいろ〟で一瞬だけ見かけた七海ななみの妹だ。姉ほど極端ではないものの、非常に精緻せいちな顔立ちがそれを証明している。

 そしてそんな七海妹に押し倒され、しかも胸板にスリスリと頬擦りをされているどこぞのイケメン野郎を見下ろして――俺は呟いた。


ゴミ野郎……」

「ご、誤解だっ!?」


 軽蔑を隠そうともせずにそう言い、立ち去ろうとする俺の左足首を掴んでくる久世真太郎くせしんたろう、もといクズ真太郎。


「……離せよ、クズ野郎」

「屑野郎!? ちょ、ちょっと待ってくれ小野おのくん! は、話を聞いてくれ!?」

「ロリコンの下痢ゲリ野郎の話なんざ聞きたくねえよ。耳が腐る」

「ロリコンの下痢野郎!? い、いや分かるよ!? たしかにこの状況はそう捉えられても仕方ないかもしれないけれど、でも――」

「黙れよ八方美人ハーレム野郎。その薄汚い手を離せ。そしてくたばれ」

「こんな時だけ語彙ボキャブラリーが豊富すぎる!」


 俺は手を離そうとしない久世を冷たい瞳で見下ろしたまま、はあ、と白いため息をつく。


「……おい、塵屑ロリコンの下痢八方美人ハーレム野郎」

「いや長いよ! 二人称が長い!」

「俺はお前がいけ好かないモテだとは思ってはいたが、少なくともこんな奴だとは思ってなかった。それどころか最近は……まあ、一応〝友だち〟くらいには思ってたよ」

「お、小野くん……」


 なにやら感動したような瞳を向けてくる久世。俺はそんな彼にフッ、と微笑みかけ――そして真顔で言った。


「でも今日でテメェとは絶交だ。二度とその汚ねぇツラを俺の前に見せるな」

「お、小野くーーーーーんっ!?」


 後ろで声を上げる久世を無視し、さっさとその場から立ち去ろうとする俺。

 しかしそんな俺の右足首を、誰かの手がガッ、と掴んだ。


「ちょっと待ってください」

「ぐおっ!? ぶべっ!?」


 両の足首を掴まれたせいでバランスを失い、顔面から前に倒れ込む。辛うじて鼻を強打することは防げいだものの、冷えきったアスファルトに全身を打ち付けられてしまう。


「て、テメェ久世っ! 何しやがんだ、危ねえだろうが!?」

「ご、ごめんっ!? い、いやでも片足は僕じゃなくて――」

「私です」


 その声に、未だ両足首を掴まれたままの俺が上体ごと身体を反らして見ると、俺の右足首を掴んでいるのは久世ではなく、件の七海妹の方だった。


「先ほどから聞き捨てなりませんね。真太郎さんに向かって屑野郎だの下痢野郎だの、ロリコンの塵野郎だの八方美人ハーレム野郎だの、優柔不断野郎だの天然タラシすけこまし野郎だの……!」

「おい待て、最後の二つはおおむね同意ではあるけど口には出してないぞ」

「そのツッコミはおかしいよね!? というか概ね同意なのない!?」


 久世が心外だと言いたげな声で喚くなか、足を掴む手を振りほどいて立ち上がる俺に対して七海妹がキッ、と鋭い目付きで俺を睨む。


「いいですか!? 真太郎さんはこの世界で最も素敵な殿方です! そんな真太郎さんに向かってあんな暴言を吐くなんて許せません!」

「暴言も何も、全部真実なんだが」

「違うよね!? そ、そんな真顔で言わないでくれないかい小野くん!?」

「そうですよ! たしかに真太郎さんは八方美人だし、モテモテだからハーレムと言われても仕方ないし、昔から優柔不断な天然タラシのすけこましですけれど!」

美紗みさ!? 君はさっきから僕の援護をするような口振りで追撃をかましてくるのをやめてくれないかい!?」

「ですけれど! 塵でも屑でもロリコンでも、ついでに下痢でもありません!」

「すげえなこの子。最後の一つのおかげで久世の腹の調子が一気に良くなったぞ」

「どうでもいいよ! というか一番感心するところがそこなのかい!?」


 なにやら一人で騒いでいる久世の上から立ち上がった七海妹と対峙する俺。……この真冬に随分丈の短いスカートを穿いているが、寒くないのだろうか。というか、地面に倒れている久世からは下着パンツが見えてしまいそうなものなのだが。

 そんな俺のどうでもいい心配を他所よそに、七海妹が仁王立ちで言ってくる。


「一応初めましてですね、小野悠真おのゆうまさん。もっとも私は、以前からあなたのことを知っていましたけど!」

「お、おう? そ、そうなのか」


 顔は知られていても不思議はないが、なんで名前まで知ってるんだろう……? 七海が話した……のか? あの女が他人ひとの話をするところなんて想像もつかないのだが。

 首をかしげた俺に、七海妹はふん、と鼻息を荒くしてビシッ、と指を差してくる。


「以前失礼な勘違いをしていたことは謝りますけど! でも私はお姉ちゃんのことも含めて、あなたのことを認めたわけじゃありませんから! そもそもあなたの本性ことなんて、まだ全然知りませんし!」

「お、おう……?」


 な、何を言っているんだろうこの子は。やばい、全然話についていけない。

 これはアレか? 〝知能指数IQが二〇以上離れていると会話が成立しない〟というアレか? 七海の妹なんだからこの子も頭がいいんだろうし……いやでも、その理屈だと俺と七海の会話が成立してる説明がつかなくなるのだが。

 とにかく、初対面なのにいきなり喧嘩を売られてしまった。彼女が七海の妹だというのなら、なるべく仲良くしておきたかったのだが。

 超が三つも四つもつくようなお嬢様に嫌われたらどうなるか分かったものではない。七海と出会ったばかりの頃を思い出しながら、俺は内心ぶるりと身を震わせていた。


「そ、それよりも美紗、君はどうしてここに……?」


 久世が立ち上がりながらそう問い掛けると、七海妹は一変したように可愛らしい表情になると同時、「あっ、そうでした!」と彼の方を振り返る。


「あ、あの、真太郎さん。中学校で噂になっていたんですけど――」

「!」


 七海妹の発した〝噂〟という単語に、ピクリと反応する俺。

 な、なんだかすごく嫌な予感がする。い、いやでもまさか、そんなことがあるわけ――


「真太郎さんにかか……って、本当なんですかッ!?」

「…………」


 ……予想の右斜め上を行くその質問に、俺はもはや、諦めたようなため息をつくことしか出来なかった。

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