第八六編 変わらないもの

 あれからもそもそと残りのケーキを食べて、真太郎しんたろうさんに挨拶をしてから喫茶店を出た私たちは、そのまま寄り道せずに真っ直ぐいえまで帰った。……いや、そもそもあの喫茶店へ行ったこと自体、寄り道のようなものだったのだが。

 車庫へ向かって発進する服部はっとりの車を尻目に、トボトボとやしきの敷地内を歩く。玄関口で控えてくれていた使用人たちが揃って心配そうな顔をするが、私は適当に笑って誤魔化しながらリビングルームへと向かった。


 お姉ちゃんに怒られたのなんて、いつ以来だろうか。少なくともこの一年以内にそんな記憶はなかった。

 そもそも彼女は、私に対してほとんどお姉ちゃんかぜを吹かさない。私たちの家柄が普通よりもやや特殊というのもあるだろうが、それ以上に彼女の性格が変わってしまった部分が大きいのだろう。


「(そういえば……昔はよく真太郎さんや春奈と明穂妹ちゃんたちに迷惑かける度に、よくお姉ちゃんに叱られたっけ……)」


 在りし日の記憶に思いをせつつ、私はクスッ、と笑みをこぼす。

 怒られたことに落ち込みはしたが……今日のお姉ちゃんは少しだけ昔のお姉ちゃんに戻ったみたいで、それが何故だか嬉しかったのだ。

 私は今のお姉ちゃんだって大好きだ。けれど昔の、よく怒ってはよく笑う彼女のことも、やっぱり大好きで。

 今日、そんな昔のお姉ちゃんの影を見られたことが、嬉しくて仕方がなかったのだ。

 ……とはいえ。


「(まあそれでも、怒られた後に顔を合わせるのって怖いよねー……)」


 リビングルームのドアの前に立ち尽くし、私ははあ、と息をつく。

 幼少の頃も、忙しい両親に代わってお祖母ばあちゃんやお姉ちゃんに怒られた日は、こうしてドアの前でタイミングを見計らっていたものだ。いやあ、懐かしいなあ。……そして、やっぱり怖いなあ……。


「(待って、めちゃくちゃ怖いんだけど!? この一年間怒られた記憶がないからこそ、お姉ちゃんに会うのがめちゃくちゃ怖いんだけど!?)」


 自分で言うようなことではないが、基本的に優等生気質である私は滅多なことでは怒られたりしない。

 成績も評定も常に学年トップを維持しているし、一部を除いて人に迷惑をかけもしない。だから当然、怒られることもない。

 しかしその反動に、私は〝怒られること〟に対する耐性がほとんどついていないのである。中学三年生にもなって、今ちょっとだけ泣きそうだった。

 それでも、いつまでもこうしているわけにもいかない。私は深呼吸をしてから意を決し、リビングに続くドアに手をかけた。


「ただいまー……。お、お姉ちゃん、もう帰って――」

「――ええ、だから再来週の土曜日なら構わないわ」

『そうか。再来週だったらシフト調整もしてもらえるだろうし、あいつらと店長に話通してみるよ』

「!?」


 そーっとドアを押し開けていた私の耳に、お姉ちゃんと男の人の話し声が聞こえてきた。思わず私はバッと身をかがめ、そしてドアをギリギリのところまで閉め直す。


「(えっ、えっ!? い、今の声……お、〝小野おのさん〟……!? い、家に呼んでたの!?)」


 私はそう思ってわずかな隙間から中を覗いてみる。


『でも本当にいいのかよ? 家の人に迷惑とかじゃ……』

「気にしなくていいわ。その日は祖母も出掛けるそうだから。やしきの使用人はいるけれど、貴方たちが騒いだりしない限り、彼女たちの手をわずらわせるようなこともないでしょうし」

『さ、騒ぐわけねえだろ……金持ちの家でそんなことしたら銃殺とかされそうだし』

「……相変わらず、貴方が私たちに抱くイメージは虚構フィクションの影響を受けすぎね」


「(……な、なんだ、また電話か……)」


 どうやらキッチンでコーヒーを淹れているらしいお姉ちゃんが、スピーカーをオンにして通話をしているようだ。見れば、リビングテーブルの上に彼女の携帯電話が立て掛けられている。

 さっきまで二人で会っていたのにまたすぐに電話なんて、まるで交際したてのカップルのようだが……どうやら喫茶店で聞いた、試験対策の勉強にうちの邸を使うとかいう話の続きのようだ。


『ならいいんだけど……あれ? でもお前、妹さんが居るんじゃねえのか?』


「!?」


 突然〝小野さん〟が私のことに言及し、「(隠れているのがバレた!?)」と思わず身を跳ねさせる。


「……そうね。あの子は家に居るかも知れないけれど……その日は書斎を使うつもりだから、それも気にしなくていいわ」

書斎ショサイ! や、やっぱそういうの、現実に存在するんだな……』

「何に驚いているのよ」


 な、なんだ、当日に私が居るのでは、という話か。ビックリした……。


『……でもお前の妹だけあって、やっぱ可愛い子だよな。お前みたいに仏頂面でもなさそうだし』

「……貴方はいつも一言余計ね。それに前にも言ったでしょう。あの子は私と違って社交的なのよ」

『いや、お前との比較でいいならほぼ全人類が社交的になっちまうだろうが』

「……。……それもそうね」

『納得するんかい。……でもあの子、やっぱどっかで見たような気がするんだよなあ……』

「……妹に良からぬことを考えるのはやめて貰えるかしら」

『だから考えてねえよ。何回言うんだよそれ』

「……当たり前でしょう」


 お姉ちゃんは何故かそこで一拍置いてから――静かな声で言った。


「たった一人の可愛い妹に迫る毒牙を払わない姉が、どこにいるというのかしら」


「……!」


 お姉ちゃんのその一言に、私は大きく瞳を見開く。


『いや、お前ほんと俺をなんだと思ってんだよ。俺のビビリを甘く見るなよ? 金持ちのお嬢様相手によこしまな感情を抱けるような男だと思うな』

「……それは威張って言うようなことかしら」

『威張って言うようなことだよ。大体お前は前々から――』


 会話を続ける二人に意識を向けるのをやめ、私はその場に視線を落とす。

 ――〝たった一人の可愛い妹〟。

 お姉ちゃんにそう言って貰えたことに、どうしてか、心を打たれてしまった自分がいたのだ。


 笑わなくなってしまったとはいえ、お姉ちゃんの中身が完全に別人にすり替わったわけではないということは分かっていた。……分かっていた、つもりだった。

 だが、昔のように笑いかけてくれなくなった彼女に、いつしか私は、不信感にも似た不安を抱いていたのかもしれない。

 もうお姉ちゃんは、私のことすらどうでもよくなってしまったのではないかと、心のどこかで疑っていたのかもしれない。


 けれど、やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんだ。

 あの太陽のような笑顔を見ることはできなくなってしまったけれど、それでも彼女は、私の大好きなお姉ちゃんのままだ。

 そんな当たり前のことに気付き、自然と私の涙腺が緩む。


「(……そうだよね、お姉ちゃん……。お姉ちゃんが、そんなに変わっちゃうわけ、ないよね……)」


 思えば、〝小野さん〟との関係だってそうだ。

 喫茶店での様子や今の会話を聞いても、お姉ちゃんと〝小野さん〟が、私の思っていたようないかがわしい、歪んだ関係ではないのは明らかである。

 あのお姉ちゃんがそんな関係を良しとするような人ではないことくらい、私は知っていたはずなのに……それでもそんな疑いを抱いてしまったのは、私がどこかで「お姉ちゃんは変わってしまった」と思ってしまっていたからに他ならない。

〝小野さん〟についてはまだ知らないことだらけではあるものの、少なくとも私の目には、彼が悪い人であるようには見えなかった。


 私は神社で真太郎さんに「思い込みが激しいところがある」と言われたことを思い出す。

 自覚はなかったのだが、案外それも的を射ていたのかも――


美紗みさお嬢様? そんなところでなにをされているのですか?」

「うっひゃあああああああっ!?」


 突然後ろから掛けられた声に、私は悲鳴をあげながらリビングの方へと飛び下がる。


『ッ!? な、なんの声だ!?』

「……美紗?」


 ドアをぶち破って登場した私の耳に、電話の向こうで何事か、と言わんばかりの〝小野さん〟の声と、キッチンの方から不思議そうな目を向けてくるお姉ちゃんの声が届く。

 ……私は静かに身体を起こしつつ――後ろから私を驚かせたに顔を向けた。


「……あっ。……し、失礼いたしました……」


 なんとなく状況を察したのか、そこに立っていた私のボディーガード――服部獅音しのんが、視線を逸らしながらスス……とドアの前から消えていく。

 私はなにも言わぬままに彼女の消えたドアからリビングを出て、そしてバタン、とドアを閉めた。

 そして大きく息を吸い込み――叫ぶ。


「服部いいいいいぃぃぃぃぃっ!!」

「ご、ごめんなさいっ、ごめんなさいいいいいぃぃぃぃぃっ!?」


 ――この後、「こんな時間に大騒ぎするな」とお姉ちゃんに怒られたことなど、語るまでもなかった。

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