第七六編 〝小野 悠真〟

 その機会は、意外なほど早く訪れた。

 三箇日さんがにちも今日で終わりだなぁ、なんて考えながら、かといってまだ少しだけ冬休みが残っているためにそれほど感慨深くもなく、いつも通りだらだらと夜を過ごしていた私は、ダイニングキッチンのテーブルの上で何かがブルブルと震えていることに気が付く。

 見れば、どうやらお姉ちゃんの携帯電話に着信が入ったようだ。


「お姉ちゃーん? なんか携帯鳴ってるけどー?」


 お正月特有の、あまり面白くはないけれど出演者だけは無駄に豪華なバラエティー番組から視線を外してお姉ちゃんにそう声を掛ける。

 するとキッチンの端の方に設置されているコーヒーメーカーで安物のインスタントコーヒーを淹れていた彼女は、軽くこちらを振り返って「…………そう」とだけ呟くと、しかし電話に出ようともせず、ひたすらコーヒーに砂糖を入れまくる作業に戻っていく。


「い、いやいやお姉ちゃん? 電話、電話が掛かってきてるんだってば」

「気にしなくていいわ」

「き、気にしなくていいわって……あ、切れた」


 そうこうしている間にコールが途絶えてしまった。それと同時にコーヒーカップを手にしたお姉ちゃんが、私のいるダイニングテーブルの方までやってくる。


「いいの? 電話、切れちゃったけど」

「構わないわ。どうせ大した用事ではないから」


 言いながら私の正面の席に着くお姉ちゃん。……「大した用事ではない」、って、誰からの電話かも分からないのになぜそんなにハッキリと言い切れるんだろう。

 そんなことを考えていると、再度お姉ちゃんの電話がブルブルと震える。どうやら再び着信が入ったようだ。


「(でもこんな時間に誰から電話が――ハッ!?)」


 思わずハッとして、机の上にあるお姉ちゃんの携帯電話へと目を向ける。

 その点灯した画面に表示されている着信者の名前は――


 ――〝小野おの 悠真ゆうま〟。


「(で、出たあっ!?)」


 まるで稀少レアな珍獣を発見したハンターのような気持ちになる私。

 小野悠真――まず間違いなく、例の〝おのくん〟さんに違いない。

 元日がんじつに「調べてみようか~」なんて考えてはいたものの、まさかこれほど早くフルネームを知ることが出来るとは。

 そしてそんな私の視線に気付いているのかいないのか、お姉ちゃんが携帯の画面にスッと指を走らせ――なぜか着信を切ってしまった。


「ええっ!? いや、ええっ!?」

「どうしたのかしら?」

「いや『どうしたのかしら?』じゃないよ! それはこっちの台詞だよ! な、なんで切っちゃったの!?」

「気にしなくていいわ。それより美紗みさ、早くドーナツを選んで頂戴。私は残ったもので構わないから」

「えっ、いいの!? わーい、そういえば食後のデザートの途中だったねぇ――じゃないよ! 今ドーナツどころじゃないから!」

「? 要らないの? それなら遠慮なく私が頂くけれど……」

「あえ、いや、待って! 食べる、食べます! す、すぐに選ぶから待って!?」


 私のお気に入りのお店のドーナツが入った箱を持っていこうとするお姉ちゃんの足にすがりつく。こ、この甘党を極めた姉にかかれば、ドーナツの一箱なんて一瞬で食いつくされてしまう。それだけはなんとしてでも阻止せねばならない。

 すると三度みたびお姉ちゃんの携帯電話が震える音が聞こえてきた。今度は先程までと違い、着信の通知ではないようだ。

 仕方なくお姉ちゃんが箱を手放した隙に、自分の好きなドーナツを抜き取る私。よ、よし、これでデザートは確保完了だ。


「…………」

「……? お姉ちゃん?」


 ふと顔を上げると、携帯電話を見ていたお姉ちゃんがため息をついたのが見えた。

 不思議に思っていると、彼女は素早く携帯電話を操作して、それをそのまま耳へと当てる。


「(……えっ、電話掛けてる……?)」


 お姉ちゃんが誰かと通話すること自体珍しいが、彼女から誰かへ電話を掛けるのはもっと珍しい。……わたしでさえ、お姉ちゃん側から電話が掛かってきた記憶など数えるほどしかないというのに。


「――電話を掛けてくる度に脅迫するのはやめて貰えるかしら」

「(脅迫!?)」


 すぐに電話が通じたらしいお姉ちゃんが開口一番にそう言ったのを聞き、私はギョッと目を見開く。


「――それは貴方が何度も掛けてくるからでしょう。…………はあ、分かったわ。それで、いったいなんの用件かしら?」

「(えっ、なに、なんの話をしてるの……!? だ、大丈夫なの……!?)」


〝脅迫〟などという物騒なワードが飛び出すような通話を平然と続ける姉の姿におののく私。

 お姉ちゃんにとって〝おのくん〟さん改め小野さんは、下僕ではなかったのだろうか。なんで下僕に脅迫されてるんだ、うちの姉。


「――ええ。…………そうね。…………。…………あまり遠回しな言い方をしないで貰えるかしら。言いたいことがあるのなら正面からハッキリ言いなさい」

「(な、なんか叱ってる……)」


 お姉ちゃんが他人の言動に対して口を出すというのも、これまた珍しい光景である。他人に期待しない性格上、基本的に彼女はどこで誰が何をしていようが、自分に不利益がない限りは放置するタイプなのだが……。


「――分かったわ。とりあえず話だけは聞いてあげる。…………ええ。…………ええ、それじゃあ明日ね」

「! で、電話、終わったの?」


 携帯電話を耳から離したお姉ちゃんに訊ねると、彼女は「ええ」と言いながら携帯の画面を弄りながらテーブルに着く。

 話を聞く限り、どうやら明日、小野さんとなにか予定が入ったようだが……。


「お、お姉ちゃん? な、なんの電話だったの?」

「? ええ、明日のことで、少しね」

「へ、へぇ~……」


 適当な笑みを浮かべながら、内心では「(明日、なにがあるの!?)」と気になって仕方がない私。

 き、気になる……! けれど、流石に自分がまったく関与しないプライベートな用件について詮索できるほど、私は図太くなかった。

 しかし自分の時間を奪われることが嫌いなあのお姉ちゃんが、明日などという急な約束アポイントメントに応じるだなんて……余程大事な用件なのではないだろうか。


「(気になる……気になる、気になる……! うう、でもなあ~……!)」


 ……結局この夜、私はお姉ちゃんと小野さんとやらの翌日の予定を聞き出すことができないまま、悶々とドーナツをかじることしか出来なかったのであった。

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