第六四編 聖夜を終えて

 目を開けると、もはや見慣れた天井が視界に入った。

 俺は口元に垂れたよだれ寝間着ねまき代わりのTシャツの袖で拭うと、寝ぼけまなこのままむくりと上体を起こす。


「…………朝か……」


 中途半端に閉じられているカーテンの隙間から射し込む太陽光を見てそう呟くと、なんだかしわがれた爺さんのような声が出た。

 そして続けて、半分物置と化している勉強机の上に掛けられたカレンダーへと目を向ける。

 今日は一二月二六日――クリスマス翌日。

 俺はエンジンのかかりの遅い脳みそで「ああ、そうか」と思考する。


 昨夜、考えもなしに真冬の川に飛び込み、その後口の悪いどこぞのお嬢様に助けられた俺は、夜一〇時半頃に彼女の従者である本郷ほんごうさんが運転する車に送って貰う形で帰宅した。……いきなり高級車リムジン――それもセブンス・コーポレーション令嬢が同乗している――で帰って来た息子の姿に、両親がギョッとしていた記憶がよみがえる。まあ、そりゃ驚くだろう。

 それから俺は飯も食わないまま布団に直行し、泥のように眠った。もはや身も心もクタクタだったのだ。なにかをする体力も、なにかを考える気力も残ってはいなかった。


「(……あいつらは、上手くいったんだろうか)」


 そっと瞳を伏せて考える。

 あいつら、というのは言うまでもなく俺の幼馴染みである桐山桃華きりやまももかと、その恋慕の対象たるイケメン野郎、久世真太郎くせしんたろうのことである。

 帰りの高級車リムジンの中で本郷さんに聞いたところによると、あの二人は俺が尾行を中断した後、無事にレストランで食事をとり、中央公園のイルミネーションを見に行っていたらしい。

 そしてその後、なにやら場所を移動した先で桃華は無事にクリスマスプレゼントを渡すことに成功したそうである。


 というか、どうしてそんなに細かな状況まで知っているのか、とたずねたところ、どうやら本郷さんは昨夜、俺がバイト先の喫茶店〝甘色あまいろ〟を出るよりも前からあの二人の動向をずっと監視していたとのことだった。……本当に何者なんだ、あの人は。

 久世たちの動向を常に把握し、その途中で馬鹿な真似をした俺をホテルにまで送り届け、そしてボロボロになってしまったプレゼントを元通りに修復させ、最後はそれを本人に気付かれぬまま桃華の鞄に戻してみせる。……あのわずか数時間ほどで、いったいどれだけの仕事をこなしているんだ。恐ろしいにもほどがある。


 そして本郷さんにその〝任務〟を命じた者こそ、俺の協力者にして毒舌お嬢様こと、七海未来ななみみくだった。

 彼女もまた、俺が前日に無理な呼び出しを掛けた段階で本郷さんに桃華と久世を監視する命を下していたのだという。

 本郷さんのインパクトが強すぎて忘れがちだが、七海の存在がなければ彼女は動きはしなかっただろう。どちらにも、感謝してもしきれなかった。


 ともあれ、そんなハイスペック主従コンビのお陰で桃華はあのプレゼントを久世に渡すことが出来たようだ。しかし本郷さんはそれを見届けた時点でその場を離れたとのことなので、そこからあの二人がどうしたのかまでは分からない。

 そもそも昨夜、彼らは一体どんな話をして、どれほど仲を進展させられたのだろうか。本郷さんが言うには「仲睦まじそう」に見えたらしいが……。

 とても気になるところではあるが、しかしこればかりは俺がここで考えていても仕方のないことだ。

 幸い、というべきなのか、今日もまた三人揃ってバイトのシフトが入っている。その時にそれとなく話を聞けばいいだろう。


「……とりあえず、七海に礼の電話くらい入れておくか……」


 充電ケーブルにも繋がないまま枕元に放り出されていた携帯電話の画面をつけつつ、俺は呟く。

 なにせ昨日はあれだけ世話になってしまったからな。一応口頭で伝えられるだけのことは伝えたつもりだが、それでも改めて礼の一つくらいは言っておくべきだろう。

 見れば時刻は八時半を回ったくらいだった。ということは、俺は一〇時間ほど眠っていたのか。大したことも出来なかったくせに、一丁前に疲労だけは蓄積させていたらしい。


 それはさておき、一先ひとまずは顔を洗って飯でも食ってこよう。

 そう考えて立ち上がろうとしたところで――急に視界がぐにゃり、とねじ曲がり、俺はよろよろとベッドの端に尻をついてしまった。


「…………え?」


 自分の状態が分からず、俺は小さな疑問符を浮かべる。

 ……そういえば、なんだか頭が痛くて、熱っぽいような気がした。



 ★



『――馬鹿は風邪を引かないと聞いていたけれど、どうやらそれは迷信だったようね』

「どういう意味だこの野郎」


 それから約数時間後。

 体温を計ってみると見事に三八度という高熱ハイスコアを叩き出していた俺は、一〇時間も寝た後だというのに、再び布団の中へと舞い戻っていた。

 風邪を引いた原因なんて、まあ考えるまでもない。あんな真冬の川に飛び込んだ挙げ句、その後しばらく夜風に吹かれた上、あのお嬢様の忠告も無視してシャワーも浴びずに放置したせいだろう。これほど〝自業自得〟という言葉が綺麗に当てはまるケースも珍しかった。


 そして俺は行きつけの病院で「この真冬に川で遊泳って、いったい何を考えているんですか」という旨のお叱りを受け、店長には電話でバイトを休む旨の連絡をつけた。

 ……ちなみに店長にはやたら深刻なトーンで『お、小野っちが風邪、って……そ、そりゃあどんだけやべぇ最新型ウイルスなんだ……?』と心配されてしまったのだが……あれもよくよく考えれば「だって馬鹿は普通、風邪引かないはずだろ?」的な意味じゃねえか。畜生、どいつもこいつも馬鹿にしやがって。

 …………。

 …………いや、まあ今回の俺は完全に馬鹿だったけども。


 とにかく自業自得で風邪を引いた俺は、大人しくベッドに潜り込み、とりあえず七海に昨夜の礼の電話を入れたのだが……早くも通話を切りたい気持ちでいっぱいだった。


『……けれど、やはり病気というのは恐ろしいものね。これだけ文明が進歩した世界でも、未知のウイルスがあるのだから』

「いやだから普通に風邪引いただけだっつの。なんなの、お前らの中で俺はどんだけ馬鹿だと思われてんの?」

『小野くんほどの馬鹿ひとが、並大抵のことで風邪なんて引くはずがないでしょう?』

「おいテメェ、今なんていう単語に〝ひと〟って読み仮名ルビを振った? つーか真冬の寒中水泳は〝並大抵のこと〟じゃねえんだよ」

『あら、確かにその通りね。あれだけのことをしたのだから、馬鹿な小野くんが風邪を引くのも納得というものだわ』

「お前今ドストレートに〝馬鹿〟って言いやがったな」

『この季節に考えなしに川に飛び込んだ挙げ句、ホテルにまで連れていってあげたのにシャワーも浴びずにグズグズしていた人が〝馬鹿〟じゃないとでも?』

「すみませんでした」


 完全に論破され、素で謝る俺。体勢こそ寝転んだままだが、気分的には土下座しているつもりだった。そんな誠意ある謝罪が伝わったのか電話口からはお嬢様が『分かればいいのよ』と上から目線でお許しの言葉をくださっていた。なんと慈悲深い。そして腹立つ。


 ……というかよくよく考えたら俺は昨夜ゆうべ、七海と二人きりでホテルに入ってしまっていたのか。

 まあ俺はそれどころではなかったし、七海は七海でいちいち俺ごときの存在を気にするタイプでもないだろうが……少し無防備過ぎたかもしれない。普段はそこまで意識しやしないが、七海はアレでも世界有数のガチお嬢様なのだから。万が一にでもなにかやらかそうものなら、俺はこの世から存在を抹消されるかもしれない。

 というかそんなことになったら、ず本郷さんがブチギレるんじゃないだろうか。


「…………」

『……? 小野くん? どうかしたかしら?』

「……お嬢様。昨日あの後、本郷さんはなにかおっしゃっておられましたでしょうか」

『なによ、その気持ちの悪い敬語は。……特に何も言ってはいなかったけれど』

「ほ、本当ですか? 『ご命令とあらばあの男の存在を抹消してご覧にいれましょう』とか言ってませんでした?」

『貴方、相変わらず本郷に対する苦手意識が強すぎないかしら』


 電話の向こうで七海がため息をついた。


『もしかして、昨日私とホテルに行ったことを気にしているの?』

「うっ……」


 あっさりと看過されてうめく俺。相変わらず鋭い女だ。


『別に気にしなくていいわ。というより、貴方は私相手にそんなよこしまな感情なんて抱かないでしょう?』

「いや、抱かないでしょう、って……」


 要するに七海コイツは「小野くんは桐山さんのことが好きだから私に変な気は起こさない」と思っているわけだ。

 そりゃあ俺は今でも桃華のことが好きだし、そもそもそんな真似をする度胸もありはしないが……そういう問題か、これ? なんというか相変わらず、他人ひとの感情を理解していないというか、物事を理屈だけで考えてるというか……。


「……もうちょっと警戒した方がいいんじゃねえの? お前、見てくれだけは無駄にいいんだから」

『〝無駄に〟は余計よ。……それに小野くん。貴方はよく知っているはずでしょう?』

「?」


 七海はそこで一拍置くと、静かな声で言った。


『私はそう簡単に他人ひとを近寄らせたりはしないわ』

「……えっ……」


 そ、それはいったい、どういう意味だろう。

 いや、確かに七海コイツは俺に〝警護〟なんかやらせてるほど他人ひと嫌いのやつではあるが……。


『――そろそろ切るわ。お大事にね、小野くん』

「うぇっ? えっ、あ、ああ。ありがとう……」


 そう答えると、プツッ、と電話が切れた。ツー、ツー、という不通音ビジートーンが、俺の耳にむなしく響く。


「…………あいつ、やっぱりよく分かんねえ奴だな……」


 これが庶民とお嬢様の埋められない差なのだろうか。

 俺は熱のせいか回りの悪い頭でそんなことを考えながら、携帯の画面を落としたのだった。

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