第六三編 自己犠牲イルミネーション⑦

『――はい。その後中央公園にて桐山桃華きりやまももか様に接触、ご本人様に気付かれることなく、無事にプレゼントを彼女の鞄に戻すことに成功いたしました』


 携帯電話から聞こえてくる女性の声に、ホテルのソファに腰掛けながら分厚い洋書を開いているその美しい少女――七海未来ななみみくは、相変わらず感情がほとんど読み取れない声色で「そう」と呟いた。


「流石ね、本郷ほんごう。見事な働きだったわ」

『勿体なきお言葉。以上でお嬢様よりおおせつかっていた任務はすべて完了致しましたが――すぐにそちらへお迎えに上がりましょうか?』

「…………そうね……」


 未来はちらり、と部屋の奥へと視線を向けた。

 彼女が今居るのは高級ホテルの最上階にあるスイートの一室なのだが、この部屋は大雑把に言えばアルファベットの〝L〟を時計回りに九〇度回転させたような構造をとっている。そしてその一番右奥にあたる位置にあるのが、全面がガラス張りになっているシャワールームだった。

 そこでは今まさに、一人の少年がシャワーを浴びているところである。


「…………いいえ、急がなくていいわ、本郷」


 静かな声で、未来が言う。


「〝彼〟もどうせすぐには落ち着かないでしょうし、貴女にも無理な仕事を押し付けてしまったわ。少し休んでから、後ほどこちらに合流して頂戴」

『かしこまりました、未来お嬢様』


 失礼致します、という声の後、通話を切る未来。その画面に映るデジタル時計を見ると、現在時刻は二〇時三〇分を少し過ぎたところだった。

 すると丁度そのタイミングで、シャワールームからバスローブを纏った少年――小野悠真おのゆうまが出てきた。


「随分と早いのね。もう少し落ち着いて入ったらどう?」

「……こんな全面スケスケの風呂場で落ち着けるわけねえだろ」

「あら、多少は調子が戻ったようね。なによりだわ」

「うるせえ」


 こんな高級ホテルやガラス張りのシャワールームはおろか、おそらくはバスローブを纏うことにも慣れていないであろう彼は、流石に落ち着かない様子で絨毯じゅうたんの敷かれた床の上に腰を下ろした。

 未来が腰掛けているもの以外にもソファや椅子はあるのだが……身分違い過ぎて気が引けるのかもしれない。そもそもこの絨毯だって、ふかふかすぎて逆に座り心地が悪いくらいだ。

 とはいえ未来の言葉通り、シャワーを浴びる前と比べて多少は回復したように見える。泥汚れが落ちたのはもちろんだが、彼女に悪態をつける程度には、精神的にも復調しているようだった。


「――それで、桃華のプレゼントはどうなった? 今また、本郷さんから電話来てただろ」


 しかしそれでも、やはりその話は気になってしまうようだが。

 そもそも悠真がシャワーに入る前にも一度、本郷から中間報告のための電話がかかってきたのだが、「内容を聞きたければ先にシャワーを浴びなさい」という未来の命令が出たせいで、彼はまだあのプレゼントがどうなったのかを知らない。気になってしまうのも無理はなかった。


「……そうね。無事に桐山さんの元へ返せたそうよ。勿論プレゼントの中身も外装ラッピングも元通り綺麗にさせたし、彼女にも久世くせくんにもバレてはいないわ」

「…………そうか、良かった……」


 未来の言葉に、悠真がホッとしたように息をつく。


「……本郷さんって、本当に何者なんだよ。この短時間でよくそんだけの仕事が出来るな」

「あら、以前にも言った筈よ。頭脳も身体能力も、彼女ほど秀でている人間はそうは居ないわ。欠点なんて、私に対して異様に過保護なところくらいよ」

「いや、それはあの人の職務上、むしろ正しいだろ……」


 しかしいくら優れた能力があるとはいえ、悠真と未来をこのホテルまで送り届けた後、悲惨ひさんな有り様だったプレゼントの状態を戻した上、バレないように桃華の手元に返すなど、〝有能〟どころの騒ぎではない。軽く恐怖すら感じる仕事ぶりだった。

 そしてそんな本郷に護衛官を務めさせている未来もまた、本来であれば悠真が関わることなど決して出来ない雲の上の存在だったのだろう。

 彼女たちが居なければ悠真は今頃どうなっていたことか、想像にかたくなかった。


「…………七海ななみ

「? なにかしら」


 悠真は正面のソファに脚を組んで座る美しい少女の名を呼び、そしてその場で――胡座あぐらをかいたままではあるが――床にひたいがつきそうなほど、深く深く頭を下げた。


「……悪い、助かった――ありがとう」

「…………」


 それは簡素な謝罪と、簡単な謝礼の言葉。

 人によってはふざけているのか、と怒らせてしまうであろう、一見すれば誠意の欠片も感じられない態度である。

 しかし、未来は知っていた。

 その飾り気のない謝辞の中に、彼がどれだけの〝想い〟を込めているのかを。

 この少年がどれほどの覚悟をもって、今日、あの川に飛び込んで見せたのかを。


 何度でも言おう。小野悠真は愚者だ。

 たとえ自分の行動に意味がなくても、それどころか損しか生まないものだと分かっていても、それでも動かずには居られない愚者。

 無意味で、無価値で、無茶で、無謀でも。

 己の心身にどれほどの〝痛み〟を伴おうとも、自己満足だとさげすまれようとも。

 それでも、器用に生きることなど出来ない男だ。


 未来には、理解が及ばない。

 たった一人の幼馴染みの少女のために、惚れた異性のためにここまでしてみせる彼は異常だとさえ思っている。

 そのくせ彼は決して賢くもなければ、その他の能力に秀でているわけでもない。

 今日だって考えなしに行動した結果、彼はここに居るのだから。

 ――しかし。


「鬱陶しいわ。顔を上げなさい、小野くん」


 どこか突き放すように、未来が言う。

 その言葉に悠真が顔を上げると、彼女はいつも通りの興味なさげな声音で、しかしほんの少しだけ悠真から視線を逸らしながら言った。


「――貴方は今日、それなりに頑張ったでしょう」

「…………!」


 彼女の言葉もまた、簡素なものだった。簡素で、簡単で、ぶっきらぼうな言葉だった。

 しかしその簡単なはずの言葉に、なぜだか悠真はひどく心を打たれ、そしてすぐに顔をうつむけてしまう。

 他人に無関心なはずの彼女の言葉だったからだろうか。

 それとも、散々迷惑をかけてしまったにも関わらず、自分の〝無謀〟を認められたからだろうか。悠真には分からない。

 ただどうしようもない感情が、彼の胸中きょうちゅうで渦巻いていた。

 先ほど泣いたせいなのだろうか。なんだか涙腺るいせんが緩んでいるようだ。


 未来はそんな悠真から視線を切って、ソファから静かに立ち上がる。

 そして継ぎ目のない窓ガラスから、人工的な光に満ちた外の景色を見下ろした。


 あの光の海のどこかで、久世真太郎しんたろうと桐山桃華は過ごしているのだろうか。

 あの光の海のどこかに、悠真が懸命に守り抜こうとした少女の聖夜はあるのだろうか。


「…………」


 くだらない。そんなことは、心の底からどうでもいい。

 未来は他人の恋愛にも、クリスマスにも、あのイルミネーションにだって欠片ほどの興味もなかった。

 それでも、彼女は思う。


「――綺麗ね、イルミネーション」


 静かにそう呟いた美しい少女に、未だ俯いたままの少年は枯れたような、涙ぐんだような声で小さく答える。


「…………そうかよ」

「……ええ。本当に、嫌になるくらい」


 未来の言葉に嘘はない。

 綺麗だった。くだらない、ただの電飾の光でしかないと分かっているのに。

 それでもあの光の一粒一粒は、彼が必死に守り抜いた明かり。

 無謀な行動に身をやつし、胸を締め付ける痛みに耐えながら、彼等の最高のクリスマスのため、陰から懸命に照らされた〝自己犠牲イルミネーション〟。


「――馬鹿ね」


 聖夜に満ちる美しい光に瞳を閉じながら、少女は穏やかな微笑みを浮かべていた。

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