第五七編 自己犠牲イルミネーション①

 雪は降っていないようだった。さりとて、月も出ていない。

 雲に覆われた夜空に輝きはなく、冬の街を照らすのは人工的な光ばかり。

 遠くの方から聞こえてくるサイレンの音が、どことなくひりついた空気を生み出していた。


「――どうかしたのかい、桐山きりやまさん」

「えっ? あ、ううん、なんでもないよ、久世くせくん」


 店先で立ち止まっていた桃華ももかはすぐ後ろから声を掛けてきた想い人――久世真太郎しんたろうに向けて笑いかける。


「それにしても美味しかったねぇ。悠真ゆうまがあれだけおすすめするだけのことはあるよ」


 そう言って、今まさに食事を終えて出てきたばかりのレストラン、〝グッドタイムズ〟の電光看板へ目をやる桃華。あまり食に関心がないと思っていた幼馴染みの少年が「ここにすべきだ」と強くしてきたので、よほどお気に入りの店なんだろうとは思っていたが、お陰で期待を裏切らないディナーを堪能たんのうできた。大満足である。

 おまけに価格設定も非常に良心的リーズナブル。バイトを始めたばかりの身である桃華にピッタリだった。それこそ、ゆっくり歩いたとはいえ、徒歩で一時間もかけて来た甲斐があったというものだ。


「でも、本当に良かったのかい? 桐山さん」

「んへ? なにが?」

「いや、お会計だよ。割り勘になってしまったけれど……」

「? うん、だって二人とも同じくらいの金額だったよね? あっ、もしかして私の方が結構高かったりした?」

「そ、そうじゃなくて……こういう場合は、男が払うのが普通なのかなって……」


 それに僕の方が桐山さんよりも少しだけ長く働いているから、と付け足してくる真太郎に、桃華が「いやいや」と首を振る。


「そんなのおかしいよ。私たちおんなじお店で、おんなじ時給で働いてるんだよ? それなのに久世くんに全部払ってもらったりしたら、久世くんが損しかしないじゃん」

「え、そ、そういうものなのかい? クラスメイトの皆は割と普通に『男が払うのが義務』だと言っていたんだけど……」

「うーん……確かにそういうこと言ってる友達もいるし、お互いに納得してるならそれでもいいと思うけど……私はそういう不平等なのは嫌かなぁ」

「…………なんだか、桐山さんらしいね」

「えっ、そ、それどういう意味っ!?」


 小さく微笑んだ真太郎に、桃華が顔を赤くした。

〝らしい〟とはどういう意味だろうか。真太郎に桃華じぶんがどのように見られているのかが気になった桃華は問いただそうとしてみるも、彼はにこやかな笑みでそれをあっさり受け流す。

 そしてそのスマイルただ一つで、桃華はそれ以上の言及が出来なくなってしまった。彼の顔を、真っ直ぐに見られなくなってしまう。

 無理もない、ようやくまともに話せるようになったとはいえ、桃華の真太郎に対する恋心自体はなにも変わっていないのだから。


「さて、これからどうしようか?」

「うぇっ!? あ……うん、そうだね、結構いい時間だもんね」


 そう言って携帯電話で確認すると、現在時刻は八時を少し回ったところだった。冬休みで明日の寝起きを心配する必要がないとはいえ、高校一年生が外を出歩くには微妙な時間だろう。


「(……でも今日は十分、頑張ったよね……?)」


 桃華は首に巻いたマフラーに口元をうずめ、そっと笑みをこぼす。

 朝から〝甘色あまいろ〟でのバイトに精を出し、いきなり真太郎と二人きりになるというハプニングも乗り越え、この一時間ほどは心から楽しい一時ひとときを過ごすことができた。

 桃華じぶんにしては上々な戦果だろう。この先もこうして二人で過ごす機会があれば、今度はもっと楽しく話せるかもしれない。


「それじゃあ久世くん、今日のところはこれで――」


 ――それでいいの?


 不意に桃華の脳裏を、そんな考えがよぎった。

 確かに、今日彼女はこれまでにないほど頑張っただろう。

 真太郎とまともに話せるようになったし、なにより、彼とこの聖夜クリスマスをともに過ごすことができた。

 それは、真太郎に想いを寄せる他の少女達の誰一人として持っていない、桃華だけの有利アドバンテージだろう。

 しかし、だからこそ桃華は自問する。それでいいのか、と。

 先日、親友の少女に同じように問われたことを思い出す。


 彼女は言っていた。「桃華アンタは恵まれている」と。

 好きな人が出来て、その人と同じアルバイトが出来て、毎日のように話すことが出来る自分は、恵まれているのだと言っていた。

 そして同時に、に甘えているようでは駄目なのではないか、とも言っていた。

 他の誰よりも有利な桃華は、有利だからこそ、行動しなければならないのだと。



〝この先〟でも〝今度〟でもなく――〝今〟。



「――桐山さん?」

「……あ、ああ、あの、久世くんっ!?」

「え、は、はいっ!?」


 不思議そうに顔を覗き込んできた真太郎に対し、桃華は少しだけ大きな声を出した。そんな彼女にどことなく、どこぞの先輩アルバイトの面影を見たような気がした真太郎は、思わず条件反射のように背筋をピンと伸ばす。


「あ、あのっ、良ければっ、良ければなんですけどっ!」


 桃華の顔は真っ赤だった。

 こんなに緊張している自分が恥ずかしくて。

「もし断られたら」と思うとどうしようもなく怖くて。

 普段だったら、こんなことは言えなかったかもしれない。

 あと一歩のところで、踏み止まってしまっていたかもしれない。


 けれどそんな臆病な彼女の背中を。

〝勇気〟を出し切ることが出来ない彼女の背中を。



 ――遠くの空から吹いてくる冬の風に乗せられた「頑張れ」の声が、そっと押してくれたような気がした。



「私と一緒に、イルミネーションを見に行きませんかっ!?」



 ――ああ、言ってしまった。

 桃華が最初に抱いた感想はそれだった。

 もう後戻りは出来ない。後は、彼の答えを待つばかり。

 恐怖のあまり、目を開けることすら敵わなかった。ただただ、永遠にも思えるような数秒間をえ忍んだ。


「――うん、そうだね。せっかくのクリスマスだし、どこかで夜景でも見ようか」


 穏やかな声で告げられた答えに、桃華はハッと目を見開く。

 顔を上げて見ればなんのことはない、いつもの優しい笑みを浮かべた真太郎が、にこやかにこちらを見下ろしている。


「――――うんっ!」


 そんな真太郎に、桃華は太陽とも見紛みまごう笑顔を咲かせ、そして大きく頷いてみせる。

 少女が初めて出した〝勇気〟を讃えるかのように、曇り空の向こう側から覗く美しい月明かりが、夜の街を静かに照らしていた。

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