第五六編 「だから貴方は、愚かだと言うのよ」
「な……
突然現れた
「失礼致します」
「――――え」
その声に顔を上げると、すぐ側にピシッとしたスーツ姿の女性の胸元と、凛々しい顔付きでこちらを見下ろしている未来の護衛官――
次いで自分の状態を確認すると、どうやら悠真は今、本郷に両手で横抱きにされているようであった。俗に言う〝お姫様抱っこ〟である。
「――――え」
訳も分からずお姫様だっこされた彼は、そのまま側に停められている
そしてその後部座席に優しく座らされたかと思えば、流れるようにコートと靴を脱がされ、そしてずぶ濡れになったシャツへ手を掛けられて――
「――じゃねえよっ! い、いきなり何してんですかアンタ!?」
理解が追い付かずにされるがままだった悠真は、ズボンのベルトが引き抜かれるのと同時に、ハッとしたように声を上げた。
「いや、ちょ――ほんと何して――つーか強っ!? 力強っ!? なんだこれ、ぜんぜん
「暴れないでください、
「脱がすなっ!? え、なに、この唐突な貞操の危機!? な、七海テメェ、お前んとこの護衛官やっぱヤベェ人なんだけど!?」
「いいから黙って脱がされなさい。悪いようにはしないわ」
「嫌ですけど!? ま、まさかお前も変態なの!? や、やめてっ、初めては大事な人に捧げたいのッ――クシュッ!」
錯乱するあまり、純潔を奪われる乙女のようなことを口走っていた悠真は、しかしそのクシャミ一つで身体の凍えを思い出す。
途端、両肩を抱いて震えだす悠真に、未来はため息をついて、ほとんど全裸となった彼に己のコートを投げ掛けた。
「貴方の愚かさを甘く見ていたわ。まさかここまでだとは思わなかった」
「…………」
ドアを閉めきられた車内には、強い暖房が掛けられているようだ。
加えて、どう考えても超高級品であろう未来のコートは、袖を通していないにも関わらず、あっという間に冷えきった彼の身体に体温を取り戻させていく。
「愚行と呼ぶにも限度がある。私たちが今ここに来なかったら、貴方は一体どうするつもりだったのかしら」
「…………それは……」
答えようとして、しかし悠真は
当然だった。彼は完全に無策のまま、寒中水泳を断行したのだから。
するとそこへ、本郷が「お嬢様、こちらを」という言葉と共に、主人の手もとにある備え付けのテーブルに、
「……よくも、こんなもののためにそこまで出来るものね。私からすればただのゴミにしか映らないのだけれど、貴方はもし自分がこれを贈られたなら、嬉しいと思えるのかしら」
「…………!」
その言葉に、悠真は両の拳をギュッと握り締める。
やはり、反論の言葉はない。これも当然のことだった。
彼はそんなこと、もうとっくに自覚しているのだから。
「以前にも伝えたわね、小野くん」
だがそれでも、未来はいつも通りの静かな声色で告げる。
「私は貴方の価値観を聞き入れることはしたけれど、同意を示したつもりは微塵もない。たかがクリスマスプレゼント一つごときのために――いいえ、たかが恋愛ごときのためにこんな無謀な真似をする貴方のことが、心底理解出来ないわ」
それは冷たい言葉だった。
そしてそれは、七海未来の
陰では真太郎の望むプレゼントを調査し、今日も悠真の頼みを聞き入れて協力してくれた少女の、本心だったのだろう。
いつの間にか、彼女の理解を得られたと勘違いしていたのかもしれない。
未来はずっと、悠真の行動のすべてを冷めた
「――くだらないわ、本当に」
とどめを刺すように、美しい少女が言う。
透き通るような声音で、無表情のまま、当然のように言う。
「貴方は周りのことなんてなに一つとして見えていない。貴方のしていることはすべて、ただの自己満足でしかない」
――
「だから貴方は、愚かだと言うのよ」
「――じゃあッ! どうしろって言うんだよッ!」
とうとう
そして彼は、今にも泣き出しそうなほどの
「俺はどうすれば良かったんだよ! 分かってんだよ、自分がどんだけ馬鹿かってことも、お前にどんだけ迷惑掛けてるかってことも! でも、それでもこうすることしか出来ねえから、俺は今ここにいるんだろうが!?」
それは、子どもの駄々にも等しい言葉だった。
開き直り、自分の行いを正当化せんとするばかりの言葉。
器用に生きることが出来ない彼の、苦し紛れの言い逃れだった。
「一〇年間も好きだったんだよ! でも、俺は一度だって
少年の想いの丈に、しかしやはり、未来の表情は動かない。
「分かってるんだよ、こんなのは自己満足だって……! でも、こうするしかねえじゃねえか……! 無理なんだよ、正面切って
それこそが、彼が表だって桃華の恋を応援できない本当の理由。
「桃華に〝自分の力で〟恋を叶えて貰いたい」だとか、「桃華が後から疑心暗鬼に陥るのではないか」だとか、それらしい理由付けは出来る。いや、それらも確かに彼の本心だった。
しかし結局のところ、悠真は面と向かって桃華の恋を支えてやるだけの自信がなかったのだ。
自分の恋愛で何一つ成さなかったくせに、「頑張れ」などと彼女の背中を押してやることは出来なかったのだ。
「だから俺は、こんなことしかしてやれない……!
未来の胸ぐらを掴んだ悠真の手が震える。
それはもはや、寒さによる震えなどではないのだろう。
「俺はただ、桃華に幸せになってほしい……!
悠真の手のひらから、次第に力が抜けていく。
俯いてしまった彼の表情は見えない。見えないが――まだ濡れたままの髪から落ちた
震えるその肩はあまりにも弱々しく、その姿こそが、彼がどれだけの苦しみの中に居たのかを何よりも如実に物語っている。
「――少なくとも」
それでもなお、美しい少女はハッキリと告げる。
貴方の考えなど知らぬとばかりに。貴方の想いなど知らぬとばかりに。
無表情のまま、無感情に、興味なさげに、淡々と。
――〝事実〟を。
「貴方が恋慕う彼女は、今日の貴方の〝無謀〟を喜ぶような人ではないと思うけれど」
「――――!」
そのたった一言に悠真は目を見開いた。そして、その言葉は何よりも正しい。
桃華が、心優しいあの少女が、自分のために無茶をした悠真のことを喜んでくれるはずがないのだから。
「う……ぐ……っ……! うあ、あ……っ……!」
少女の胸元に掛けられていた手は力なく落ち、そしてとうとう、
「……だから貴方は、愚かだと言うのよ」
自らの膝の上で涙を流す悠真に、未来は静かな声音で、先ほどと同じ言葉を繰り返す。しかし、もうその目に蔑みの色はない。
それどころか少年の濡れた髪にタオルを被せ、その上からたった一度だけ、ふわりと彼の頭を撫でた彼女は、まるで手のかかる弟を叱った後の姉のように、優しげな瞳をしていて。
そんな主人の様子をバックミラー越しにそっと
運転席前に備え付けられたデジタル時計が、七時三〇分を指していた。
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