第五五編 ポーカーフェイス

「……具体的に小野おのくんは今、どういう状況にあるのかしら」


 時を少しだけさかのぼり、クリスマスの街を走る高級車リムジンの車内にて。

 柔らかく体重を受け止める後部座席に身体を預けながら、長い足を軽く組んだ美しい少女――七海未来ななみみくは、運転席に座る従者に向けて、興味なさげにたずねた。

 その手の中には分厚い洋書が開かれているが、先ほどから一頁ページと進んでいる様子は見受けられない。速読で知られる彼女にしては珍しい光景だった。


「そうですね、端的に言えば――」


 そんな少女の護衛官――本郷琥珀ほんごうこはくは、主人の落ち着かない様子を見て小さく微笑みつつ、前を向いたまま答えた。


「冬の川に飛び込んでおられました」

「……………………馬鹿なのかしら、彼は」


 信頼を寄せる従者から告げられた衝撃の事実に、さしもの未来もこめかみに手をやりつつ嘆息する。


「何があったらこの数十分の間にそんな事態におちいるのよ」

「どうやら桐山桃華きりやまももか様の久世新太郎くせしんたろう様への贈り物が、川に落下してしまったようでして」

「…………私は、彼は愚者なのだと思っていたけれど、随分と甘い評価を下してしまっていたようね」


 ため息混じりに本を閉じて、未来はそう呟く。

 本郷の言うことが本当ならば、もはや愚者どころの騒ぎではない。

 それは〝狂人〟や〝異常者〟の類いだ。〝桐山桃華他人〟が〝久世真太郎他人〟へ贈るのために寒中水泳に臨むなど、正気の沙汰とは思えない。

 少なくとも未来であれば、同じシチュエーションに一〇〇〇回出会でくわしても、一〇〇〇回とも無視するだろう。いや、未来でなくても大半の人間はそうする筈だ。


「そもそも、どうして川にプレゼントが落ちるのよ。桐山さんが乱心でもしたのかしら」

「いえ、お嬢様。確かに前半――久世様と二人きりでレストランへ向かわれている間はご乱心気味ではあられましたが、プレゼントが落下したのは、別に桐山様がご乱心の果てに川に投擲とうてきされたとか、そういう理由ではございません」

「それじゃあ久世くんが、受け取ったプレゼントが気に入らなかったということかしら」

「いえ、お嬢様。久世様はまだプレゼントを受け取られておりませんので、桐山様からの贈り物がお気に召されなかった結果、川への不法投棄を決行されたとか、そういう事情でもございません」

「……まさか偶々たまたま、不注意で川へ落としてしまったとか、そんなふざけた理由ではないでしょうね」

「いえ、お嬢様。ご推察の通りでございます。補足させていただきますと、桐山様はプレゼントを落としたことに気付いておられないご様子ですね」

「今のところ、登場人物が全員馬鹿なのだけれど」


 普段から冷静沈着で、不注意うっかりミスなど間違ってもしない未来にとっては信じられないことだった。ましてや、自分がプレゼントを失くしたことにすら気付かないなど、悠真ゆうまに匹敵する愚かしさだろう。

 未来は、あの二人は幼馴染みだと言っていたことを思い出す。……もしかしたら彼らの生活環境で育った者はみな愚者になるのかもしれない。それなりの有力説である。


「…………」


 未来は無意識の内に、膝の上に置いた本の表紙を指先でカツ、カツ、と叩く。

 苛立っている、というよりは、気がいていた。どうにも落ち着かない。

 彼女の乗る車は既に大通りに出ているというのに、クリスマスで混雑しているせいか、先ほどからあまり動いていないように思われた。


「…………本郷。あとどれくらいで着くのかしら」

「申し訳ございません、お嬢様。このペースですと、あと五分少々は掛かるかと」

「……そう」


 カリ、と本の表紙をき、未来がどうでもよさそうに瞳を閉じる。


「…………くだらないわね。いつもと同じ冬の夜に過ぎないというのに、世界中が今日という日に浮かれているなんて。理解しかねるわ」

「…………」


 そんな不機嫌な主人の愚痴に、本郷は嬉しそうに微笑んだ。


「……心配なのですね。小野様のことが」

「…………馬鹿なことを言うのね。貴女あなたがそんな冗談ジョークたしなむなんて、知らなかったわ」


 ふい、と顔を逸らす未来。相変わらずの無表情だ。照れた様子も、焦った様子もまるでない。

 それでも、付き合いの長い本郷には分かっていた。無表情ポーカーフェイスくらい見抜けなくては、この主人の従者は務まらない。

 だから、嬉しかったのだ。幼い日から友人の一人も作らず、自己研鑽けんさんと読書ばかりに時間を費やしてきた彼女が、こうして〝小野悠真他人〟のことをおもんぱかっていることが。

 本郷は微笑んだまま「いえ、お嬢様」と、素直ではない主人に向けて告げる。


「恥ずかしながら、私に冗談ジョークの心得はございません」

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