第五四編 聖夜の奇跡

「――ハアッ、ハアッ、ハアッ――! ゲホッ、う、ぐ……!」


 身体に力が入らなかった。ただ寒く、寒く、そして寒い。全身が、凍るように寒い。

 呼吸がおかしいことは、自分でも分かっていた。息を吸うたびに、冷えきった身体の中で空気が凝固ぎょうこしているかのようだ。息苦しい。思わずき込むと、肺の辺りに正体不明の痛みが走った。

 ずぶ濡れになった服が、全身から体温を奪っていく。ようやく地獄の底のような冬の水中から脱したというのに、血の気が生み出す熱のすべてが、一瞬のうちに消えていく。

 額に張りついた前髪を払う余裕もない。今はただ、見苦しくも土手の草をかき分け、少しでも風の当たらない場所へ避難することしか出来なかった。


「――ハアッ、ハアッ、ハアッ……! クソッ……! やっぱ、馬鹿……ッ!」


 寒さのあまり、口から出てくる言葉も途切れ途切れだ。歯と歯がぶつかり合い、ガチガチと無数の音を奏でている。


 ――桃華ももか久世くせに渡す予定だったプレゼントが冬の川に落ちたことを知った俺は、この聖夜に、決死の寒中水泳を実行した。

 我ながら気が触れていたとしか思えない。実際今の俺は、十数分前の自分の行動を死ぬほど後悔していた。馬鹿な真似をしたとか、そんな次元じゃない。文字通り生死に関わるレベルの行いだ。


 そもそもこんな、ほとんど明かりもない場所で小さな箱一つを探しだすなどどう考えても不可能だろう。いくら流れが比較的緩やかであるとはいえ、賭けにもなっていない愚行だった。

 どこの誰が聞いても、俺の行動に理解を示しては貰えないはずだ。なにせ本人でさえ理解しかねているのだから。


「ハアッ、ハアッ、ハアッ……! ほん、とに……ッ! き……せき、かよ……!」


 ――だからこそ俺は、自分の手の中にある物が信じられなかった。

 なぜならそれは間違いなく、桃華が落としたプレゼントそのものだったからだ。

 震える手で事前に脱ぎ捨てたコートにくるまりながら、その小さな箱を胸の内に抱き締める。


 見つけられたのは、本当に奇跡だった。

 水中に飛び込んだ俺は、一分も経たない内にほとんど身体を動かせなくなりつつも、懸命に目をらしてプレゼントを探した。水流に流されたことを考慮し、落下したと予測される地点付近よりもほんの少しだけ川下の位置を重点的に、だ。

 だがそこまで目がいいわけでもない俺が、こんな街中を流れている汚れた川の中からそれを見つけ出せるはずもない。

 それに俺は、桃華が久世に〝どんなものを〟贈るかは知っていても、具体的に〝なにを〟贈るかは一切知らなかった。それが水に浮くほど軽いのか、それとも沈むほど重いのかすら分からないのである。

 それなのに簡単には諦めきれず、一〇分も水に浸かっていたものだから、こんな風に死にかけているわけだが。


 しかし、俺が絶望しながら川岸へ上がろうとしたその時、俺の身体に何かが触れたのだ。なんだろうと思って見れば、ぷかぷかと水に浮かんだそれこそ、俺の探していたプレゼントの小箱だった。

 後から冷静に考えれば、おそらく落下地点近くの何か――水中からわずかに突き出ている岩肌か、あるいは水面まで伸びきった水草だろうか――に引っ掛かっていたものが丁度流れてきたのではないかと推測出来るものの、その瞬間の俺は状況もあいまって、死にかけの脳が見せた幻覚なのではないかと疑ってしまったほどだった。


「ハアッ、ハアッ――! と、どけ、ねえと……桃華アイツ、に……!」


 寒さのあまり、言うことをきかない身体を無理矢理に動かして、俺はずぶ濡れのまま、うようにして土手に備えられた石階段をよじのぼる。しかし身体から力が抜けきっているせいで、何度も途中で転び、その度に動きを止めてしまった。

 手は勿論のことながら、足の先が冷えきっているのがつらい。こんな感覚を奪われた状態では、自分が今どこに足を置いているのかさえ分からなかった。


 それでもどうにか土手を上がりきると、今度は冷徹な冬の風が、俺の全身を叩きつけてきた。

 すぐそこに大きな車道がある分、空気そのものの温度は川岸よりも高いのかもしれないが、そんなものは気休めにもなっていない。

 俺が今居る場所は、大通りと垂直に交わるように走っている一方通行道路の脇。そのため大通りから左折してきた車が側を走り抜ける度に、人工的に生み出された風が俺の肌から熱を消し飛ばしてしまうのだ。


「(くそ、くそ……! せっかく、見つけたのに……!)」


 俺はどうしようもなく、土手際に設置された鉄柵を背にしてうずくまる。とっくに限界だった。寒すぎて、身体が動かない。

 馬鹿な自分が情けなくて仕方なかった。プレゼントを探しだしたところで、桃華に渡せなければ見つけられなかったのと同じだ。

 そもそも、どうやってこれを桃華に返すつもりだったんだ。俺は桃華に、〝俺が彼女の恋を応援していること〟を勘づかれるわけにはいかない。だからこのプレゼントを堂々と本人に渡すことは許されないというのに。

 それでなくとも、本人が気付かぬ内に落としたプレゼントを勝手に拾って持ってくるなど、ありがたいどころか気持ち悪いだろう。いくら桃華でも、そんな男を受け入れてくれる筈がない。


「(……なんだよ……結局最初から、どうすることも出来なかったんじゃねえか……)」


 失意に沈む俺の手から、小さな箱が滑り落ちる。

 あんなに必死になって探したプレゼントは、もはやなんの価値もないゴミに成り果ててしまったのだ。


「……………………くそ…………」


 惨めにも、膝を抱えて顔をうつ向ける。

 こうなってしまっては、残るのは身をむしばむ寒さとむなしさばかりだ。

 俺が小さく喉を震わせ、限界を越えて酷使した身体が望むままに瞳を閉じようとした――その時だった。


「――まったく、見ていられないわね」


 ――透き通るように美しいその声が聞こえたのは。

 驚いて顔を上げると、まず目に入ったのは高級そうな革靴だった。

 次いで、ワンピースのすそからほんのわずかに覗く白い肌。細く、しなやかな指先に吊られたサングラス。

 そして――おそらくはプレゼントを奇跡的に発見した時と同じくらい、驚愕の表情をしているであろう俺を見下ろしている真黒の瞳。


「な……七海……?」


 寒さとは別の震えを伴った俺の声は、彼女のすぐ後方に控える高級車リムジンの静かなエンジン音にさえ、かき消されてしまった。

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