第五二編 愚者との約束

 その美しい少女は、カップルで溢れた喫茶店の隅に座っていた。

 美しい、といっても、高級そうなサングラスで目元を覆っているせいでハッキリと顔を見ることは出来ないのだが、その絹のように滑らかな黒髪と、傷一つない白い肌を見ただけで、男女問わず多くの人々が、彼女に目を奪われている。 「芸能人ではないか」と噂する声さえ聞こえてくるほどだ。


「…………」


 そんな自分に向けられる視線のすべてが鬱陶しい、とばかりに苛立ちを含んだ空気を纏いながら、少女――七海未来ななみみくは、パフェの最後の一口を食べ終えると、その艶やかな唇をハンカチで少しだけ乱暴に拭う。


 これだから、こんな日に出歩きたくはなかったのだ。

 容姿に優れすぎた彼女は、日頃から辟易してしまうくらい、他人ひとから好奇の目を向けられる。

 たとえそこに悪意的なものが含まれておらずとも、見も知らぬ他人からジロジロと見られて気分の良いはずがない。

 ましてや、普段は客数が少なくて落ち着いた雰囲気が気に入っているこの喫茶店〝甘色(あまいろ)〟でさえここまで混雑するようなクリスマスの日に彼女が外に出てしまえば、なることは分かりきっていた。

 それでも未来が嫌々ながらも今こうしている理由は、ひとえに最近関わりだした、地味で無礼なとある男のためだったのだが。


「…………」


 未来はチラリと、先ほどまで彼――小野悠真おのゆうまが腰掛けていたところに目を向ける。一時間ほど前に店を出た彼の席の前には、半分ほど食べかけのショートケーキが置かれたままだ。


「…………」


 ケーキから視線を逸らし、手元の本を開く未来。

 普段ならこんな人混みからはさっさと離れて帰宅するところだが、今日はどういうわけか、この場に留まってしまっていた。そもそもその気になれば、パフェなどはともかくケーキやパイのような持ち帰れるものは持ち帰って、もっと早く帰宅することだって出来たはずだ。

 でもそうしなかったのは悠真の残したケーキが――ケーキの一切れも食べ切れぬままに飛び出していった彼の影が、気になって仕方がなかったからである。


 ――おそらく、悠真は無理をしているだろう。未来はそう確信していた。

 彼が想い人たる少女、桐山桃華きりやまももかへ向ける気持ちは本物だ。本人は身を引いたつもりでいるのかもしれないが、外野の未来から見れば、とても割り切れているようには思えない。

 そのくせ、彼は本気で桃華の恋を叶えようとしている。自分が恋い焦がれた女の恋を、叶えようとしている。その想いもまた、本物なのだろう。


〝異常〟だと思っていた。人よりも他人の気持ちを察する能力に劣る未来でさえ。

 確かにどんな恋愛小説にだって、〝失恋〟のワンシーンはつきものだ。以前未来が読了した一冊においても、ヒロインは一度失恋を経験し、その逆境を乗り越えた末、主人公とめでたく結ばれていた。

 だが失恋それは、物語のスパイスとしては優秀だが、自ら進んで受け入れるようなものでもないだろう。失恋など、せずに済むのならしないに越したことはないはずだ。

 それなのに悠真は、桃華のために奮闘している。企業令嬢たる未来の存在さえ利用して。今日のように、未来の不興を買ってまで。


「…………」


 まるで集中できず、パタリと本を閉じる未来。

 そして少女は腕を伸ばして、食べかけのショートケーキが載った皿を引き寄せた。


 ――小野悠真は、愚かだ。

 たとえ自分が失恋したとしても、わざわざその相手の恋を応援してやる意義がどこにある。失恋したならしたで、次の恋を見つけるなり、あるいは別の何かに打ち込むなりする方が余程建設的だろうに。

 そうすれば、このショートケーキ一切れくらい、食べきることが出来ただろうに。

 そんな簡単なことも出来なくなるほどの痛みに、胸をさいなまれることもなかっただろうに。


「…………」


 喫茶店を出る寸前の、つらく苦しそうな悠真の表情が、未来の脳裏をよぎる。

 自分の心を無理矢理誤魔化ごまかすかのように、口一杯にケーキを頬張っていたあの愚者ぐしゃの顔を思い出す。


 ――未来には、恋愛なんて分からない。

 価値のない他人に向ける感情も時間も持ち合わせてはいない。

 そんなことに時間を割くくらいなら本でも読んでいた方がよほど有意義だろうと、心の底から思っている。

 だから、彼女に悠真の心は分からない。

 彼の立場に立って同情してやることも、慰めてやることも出来ない。


 七海未来は、小野悠真のことを尊重しているから。

 彼を〝愚者〟と認めつつも、その〝選択〟まで愚弄ぐろうするつもりはないから。


「…………本当に愚かね、小野くん」


 食べかけのショートケーキにフォークを入れながら、誰にも聞こえないような声で未来が呟く。

 それは、感情を表に出さない彼女にしては非常に珍しい一人言だった。


『――お食事中失礼致します、お嬢様』


 未来の耳にどこからともなく、女性の声が聞こえてきた。

 彼女の服のえりに仕込まれた、無線マイクからの声だ。


『小野様が、随分無茶な行いをされているようでございます。……このまま放置すれば、大事にいたりかねないかと』

「…………そう」


 興味なさげにそう言いながらケーキを口に運び、コーヒーの残りを飲み干す。


 やはり、彼は愚かだ。

 愚かで、無礼で、馬鹿げていて、一途で。


 ――彼女から、読書の時間を奪っていく。


「――本郷ほんごう

『はっ。既にすべての手筈は整っております』

「そう。ならいいわ」


 未来は皿の上に残っていた、一粒の苺を口に含んだ。

 甘く、そしてどこか酸味のきいたその果実をゆっくり食べ終えた彼女は、しばらく時間を置いた後に、静かに席から立ち上がる。

 そしてそのまま喫茶店の外へ出ると、すぐ目の前には見慣れた高級車リムジンが停まっていた。

 その前でうやうやしく礼をとっていた女性――本郷琥珀ほんごうこはくは、即座に未来の肩に暖かそうなコートを掛けようとして――その動きを止めた。


「……申し訳ございません。差し出がましい真似を」

「構わないわ。それよりも、早く車を出して頂戴」

「かしこまりました」


 再び一礼し、車のドアを開く女性を傍目はために、未来は肌を刺すような冬の空気を感じながら、そっと瞳を閉じる。


「――クリスマスは、貴方と過ごすという約束だったわね」

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