第三五編 お前が惚れた女は

 日曜日の〝甘色〟は、昼前から午後三時頃までが最も混雑する時間帯となる。個人経営の店ながら、一〇以上のテーブル席とカウンター席がある〝甘色〟が満席になるとすれば、基本的にこの時だけだ。

 今日は満席とまでは言わないまでも、座席は九割方埋まっており、俺たちアルバイト組もせわしなく働き続けていた。


久世くせ、四番テーブルと一〇番テーブルの片付け任せたー!」

「うん。あっ、小野おのくん! 八番さんオーダー来たよ!」

「おう。桃華ももか、二番さんが帰り支度始めてるから、そろそろ会計頼む」

「う、うん! 分かった!」

「大丈夫かい、桐山きりやまさん? 会計まだ慣れてないよね? 片付けの方と代わろうか?」

「おいおい久世くせちゃん、あんま甘やかすなー? 経験積ませてやんなきゃ、後からしんどいのはももっちなんだぜー?」

「す、すみません、店長」

「あ、ありがとね、久世くん。でも、大丈夫だから!」


 バタバタと業務に励むなかで、久世と桃華の様子を観察しながら、俺は内心で「ふむ」と頷く。

 やはり一旦仕事に入りさえすれば、久世が相手でも割合まともなコミュニケーションがとれている桃華。しかしながら、いつも翌日になると、またあのド緊張状態に戻ってしまう。


「(俺だって未だに桃華と話すときはドキッとさせられることあるし、気持ちはよく分かるんだが……)」


 このままでは、いつまで経っても二人の距離は縮まらないだろうな、と俺は思う。久世は鈍感バカだから、桃華の緊張から彼女の想いに気付く、なんて都合のいい展開は期待できない。

 それに仮に今、久世が桃華の気持ちに気付いたとしても、二人が結ばれることにはならないはずだ。久世が現状、誰とも付き合う気がないから、というのは勿論だが、彼は性格上、たとえ相手が自分に惚れていようとも、それを理由に付き合ってみたりはしないタイプだ。

 可愛い女の子に好かれればついつい意識してしまい、いつの間にか自分も相手を好きになってしまっている、なんてそれほど珍しい話でもないはずだが、久世はそうじゃない。実に厄介な野郎である。


「(早いとこ、二人の間にある〝壁〟みたいなもんは取り払っちまわないとなぁ……もう一二月も近いわけだし……)」


 一二月。そう、あと一月ひとつきもすれば、あの〝恋人たちにとっての一大イベント〟――クリスマスが、待っているのである。

 俺は客からとった注文オーダー伝票を店長に流し、そのまま空いた二番テーブルの片付けへと向かいながら、今後の動き方について考えを巡らせる。


「(久世の好みは分かった。正直、内面的に桃華は久世アイツのストライクゾーンを外れてるが、そこは今すぐにどうこう出来る問題でもないし……それに、やっぱりずは、あいつらが親密にならなきゃ、付き合うどころの話じゃない)」


 普通に考えて、ここからたった一ヶ月で桃華と久世が付き合う、なんてことは有り得ないだろう。まともに喋るだけでも一苦労なほど奥手な桃華が、そんな急展開を期待しているとも思えない。

 久世の真面目な性格を考えても、〝クリスマスマジックで交際開始〟みたいなことにはならないはずだ。

 それに俺の持論だが、体育祭やら文化祭やらクリスマスやら、なんらかのイベント中に一時いっときのテンションで結ばれたようなカップルが長続きすることはごくまれだろう。

 俺は桃華の恋を叶えてやりたいと願っているが、仮に念願叶って二人が付き合うことになったとしても、すぐに別れてしまっては意味がないのである。


 ――俺は〝桃華と久世をくっつけたい〟んじゃない。〝桃華に幸せになってほしい〟んだから。


 そのためには、やはり性急な展開は俺が目指すべき道ではない。一つ一つ、きちんと段階を踏んで、関係を築いていくべきだ。

 つまるところ、俺がクリスマスという一大イベントに期待すべきは、〝桃華と久世の距離を縮めること〟。これに尽きるだろう。

 二人で食事をしたり、イルミネーションを見たり、プレゼントを交換したり――そんなクリスマスにしてやることができれば、あの二人は一気に親密に――


「…………」


 ――だから、もういいと言っているだろう。いい加減にしてくれ。


 俺は片付けを終えた二番テーブルを布巾クロスで乱暴に拭きながら、自分の心を誤魔化ごまかすように言い聞かせる。

 鬱陶しくも、いちいち胸の奥に走る痛みをかき消そうと、下唇をギュッと噛み締める。


 想像してしまったのだ。クリスマスの夜、久世と二人で楽しく過ごす桃華の姿を。

 人工的な光に満ちた街の中を、幸せそうに歩く彼女の笑顔を。

 ――その隣に居るのは、決して小野悠真じぶんではないのだということを。


「(……くだらねぇ。馬鹿じゃねえのか。夢見てんじゃねえぞ)」


 心の中で、弱い己を叱咤する。

 もう何度目だ、こんなことを考えるのは。

 もういいだろう、とっとと諦めろよ。

 無理なんだよ、おまえは桃華の恋人にはなれないんだよ。


 ――おまえが惚れた桃華おんなは、他の誰かのことが好きなんだよ。


 ……ふと、テーブルから顔を上げる。

 レジの方ではなにか会計ミスをしてしまったのだろうか、桃華が必死になって二人連れの女性客に頭を下げているところだった。客側は「気にしなくていい」と言ってくれているようだが、レジスターの操作に慣れていない桃華は、どうしていいのか分からない様子だ。

 俺は咄嗟とっさにフォローへ向かおうとするが、そこへ運悪く、テーブル席に着いている客から注文オーダーが入ってしまった。


「(くそ、なんでこのタイミングで……!)」


 俺はイライラしながらも、染み付いた営業スマイルで客の注文を聞いていく。こうしている間にも、桃華は泣きそうになりながらレジスターと向かい合っているというのに。

 だらだらと「アレも、コレも」と注文してくる、休日によくいるタイプの喫茶店慣れしていない客からようやく注文をとり終えた俺は、すぐさまレジの方を振り返り――そして、「まあ、そりゃそうだろうな」と言わんばかりの光景を目にして息をつく。


「――こちら、レシートのお返しでございます。大変お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした」

「も、申し訳ございませんでしたっ!」


 そこでは、待たせてしまった客に向かって深く頭を下げている久世と桃華の姿があった。どうやら、会計ミスの方は久世が対応してくれたようである。


「あ、ありがどう、久世ぐんっ……! わだし、またミスをっ……!」

「な、泣かないで、桐山さん。大丈夫だよ、僕も同じようにミスして来たんだから」


 よほど焦っていたんだろう、桃華は今にも溢れだしそうなほどの涙を瞳に溜めつつ、久世に何度もお礼を言っていた。そんな桃華に苦笑しつつ、久世は優しくフォローを入れている。

 見れば、レジのすぐ横には明らかに片付けの途中であろう皿やカップが積まれている。おそらくは久世が片付けていた一〇番テーブルのものだろう。彼は片付けの最中、困っている桃華を見て即座に対応に向かったようだ。


「(……やっぱり、敵わねぇな)」


 とっくに理解している彼我ひがの戦力差を、もう一度突きつけられた気分だった。桃華のピンチに対し、それでも仕事を優先してしまった俺と、すぐに駆けつけてみせた久世。

 状況は違えど、俺だって注文待ちの客に少し時間をもらい、対応へ向かうことは出来たはずだ。仕事として見るなら、俺が客を待たせてまで対応へ向かうよりも、片付け中の久世が向かう方がいいに決まっている。でも、桃華は一刻も早く誰かに来てほしかったはずだ。彼女のことを思うなら、直ぐに向かうべきだった。

 どちらが正しい選択なのかは分からない。しかし、ああいう場面で即座に〝好きな人のため〟に動けないからこそ、俺は恋破れたのではないか。

 久世がああいう男だったから、俺は〝彼ら〟の恋を応援しようと思ったのではないか。


 言い聞かせる。自分自身に。

 何度言って聞かせても、聞き分けなく痛み続ける心臓に。

 ようやく客が少なくなり始めた日曜日の喫茶店で、俺は静かにエプロン越しにシャツの胸を掴む。


「(……ああ、くそ……痛えな……)」


 そんな俺の視線の先には、テーブルの片付けへと戻っていく久世の背中を、涙ぐんだままの瞳で見つめる桃華の姿があった。

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