第一八編 一〇〇円玉の恩返し

「(桃華ももかを〝甘色あまいろ〟のアルバイトに誘う……か……)」


 昼休みの後、苦手科目である英語の授業を聞き流しながら、俺は頬杖をつきつつ思考を巡らせていた。


「(桃華を誘う、それ自体は難しいことじゃない。……まぁアイツが今もまだバイト先を探してんのかどうかは知らんが……)」


 なにせ、桃華がバイトを探していた――というか、バイトをするかどうか迷っていたのは今から一ヶ月も前の話だ。彼女が本気でバイトをしたいと思っていたのなら、もう他の仕事を見つけてしまっているかもしれない。

 とはいえ、そこは俺が考えても仕方がないこと。こればっかりは本人に確認するしかない話だ。


「(それに……もし桃華が〝甘色ウチ〟に来てくれれば……俺も色々と動きやすくなるだろうし、な……)」


 考えながら、俺は教室の窓の外を見やる。……昼休みまでは晴れていたはずの空が、今はどんよりと曇っていた。今にも一雨降りそうなくらいだ。

 俺は胸の奥でうずく違和感に気が付かないフリをして、思考を継続させる。


 桃華が〝甘色〟でバイトをすることによるメリットはいくつかあるが……中でも一番大きな利点として、「桃華と久世真太郎くせしんたろうの間に明確な関係性を築ける」ということが挙げられる。

 今のところあの二人は、恐らくは〝甘色〟で顔を会わせたきりの関係。久世に惚れている桃華はともかく、久世から見れば桃華は〝一度会ったことがある女子〟でしかないはずだ。

 しかし同じバイト先に務めるとなれば話は別。俺が久世と話すようになったのと同様に、アルバイトをきっかけとして明確な関係性が生まれるというのは間違いないだろう。


 まぁたとえそうでなくとも、〝好きな人と同じ職場に就ける〟というだけで十二分なメリットだと言えよう。

 これについては、桃華のことが好きな俺にも当てはまる利点だ。……まぁ俺に関しては最早、意味のない利点なのだろうが。


 ――だって俺は、桃華の恋を応援すると決めたのだから。


 胸の奥の違和感――痛みが、次第に大きくなっていく。

 女々しい話だ。もう何度も考えて、その上で結論を――桃華の幸せのために、彼女を久世と結ばせるという決意をしたはずなのに、それでもいざ行動に移そうとすれば、未だに俺はこうして思い悩んでしまう。

 これほどの好機チャンスはそうそうないはずだ。バイト先の人員不足問題と、桃華と久世の関係確立。二つの問題を一手で解決できる。まさしく一石二鳥だ。

 だから悩むべき部分など、本来は何もないはずなのだ。だってこれは誰も損をしない、誰しもが望む展開なのだから。


 ――俺がこの、とるに足らない疼痛とうつうにさえ目を瞑れば。


 俺の中の理性が「桃華を〝甘色〟に誘うべきだ」と主張する一方で、俺の中の悪魔は「今なら思いとどまれるぞ」と耳元でささやいていた。

 そう、俺は桃華の件を、まだ久世には伝えていないのである。だから、俺が黙ってさえいれば、おそらく桃華がアルバイトとして〝甘色〟に来ることはないだろう。


 きっと桃華が〝甘色〟に来たら、俺はひどく傷つくことになる。


 彼女と久世は、すぐに仲良くなってしまうだろう。

 毎日のように、久世と嬉しそうに話す彼女を見ることになるだろう。

 俺の知らないところで、あの二人が話す機会もたくさん出来てしまうだろう。

 ――〝桃華の恋〟は、この上なく大きく進展してしまうのだろう。


 今なら、今だけならまだ思い止まれる。

 この大きく育つであろう〝可能性の芽〟を、今ならんでしまうことができる。

 それが正しいのだろう。それが選ぶべき道なのだろう。

 俺が、〝俺の恋〟こそを先決とするのであれば、きっとそうするべきなのだろう。

 でも……。


「(……そういや昔、桃華アイツに財布を拾ってもらったことがあったっけ)」


 ――俺はなぜか不意に、小学生の頃のことを思い出していた。

 財布といっても、一〇〇円玉が何枚か入っているだけの、巾着袋みたいなものだ。今の俺なら失くしても「ジュース何本か買えたのにな~」で済ませてしまうような、そんな程度のもの。間違っても必死になって探したりはしないだろう。一時間かけてそれを探すくらいなら、その一時間分、バイトの時間を増やした方がよほど稼げるのだから。


 しかし小学生の頃の俺は、その程度のことに〝この世の終わり〟もかくやというほどに絶望していた。買えても駄菓子くらいの金額だったが、それでもお小遣いの全てが詰まったあの小さな袋は、当時の俺にとっては間違いなく〝財布〟そのもので。

 だから小学生の俺は、それを草の根分けて泥だらけになりながら、数時間もかけて必死に探し回った。汗だか涙だかよく分からない液体で顔をぐしゃぐしゃにしながら、親に決められた門限が過ぎても、ひたすら探し続けていた。


 でも、小さな〝財布〟を見つけることは出来なかった。今にして思えば、数時間かけて探している間に誰かに持っていかれている可能性の方がよほど高かっただろう。わざわざ探すほどの金額でこそないが、仮に今の俺がたまたまあの〝財布〟を道端で拾ったら、まぁ普通に「ラッキー」とは思うわけで。そしてその程度の金額でわざわざ交番に届けてくれるほどのお人好しは、この世の中にそう多くはないはずだ。

 絶望に暮れ、とぼとぼと近所の公園から家に帰る俺。〝財布〟を失くした上に、服は泥だらけ、おまけに門限オーバー。間違いなく親に怒られるに決まっている。それくらいは、ガキの俺でも分かっていた。

 そんな時、自然と重い足取りで歩いている俺に彼女が――桃華が、声をかけてくれたのだ。


「ゆうま、これ、ゆうまの?」


 その小さな手に乗せられていたのは、まさしく俺の探していた〝財布〟だった。驚きのあまり目を丸くする俺に、桃華は「いえのすぐまえにおちてたよー」と無邪気に笑っていた。

 その時、俺がどんな反応をしたのかはよく覚えていない。嬉しさのあまり、半狂乱になっていたかもしれない。……記憶の中の幼い桃華が、若干引いていたような気がしなくもない。

 だがそんな俺に、桃華が笑いながらこう言ってくれたことだけは、今でも鮮明に覚えている。


「よかったね! ゆうま!」


 ……小学生の頃の話だ。一〇〇円玉が一万円にも見えるような年の頃の話だ。

 当時の俺が彼女と同じように〝財布〟を拾っていたら――俺はそれを持ち主に返そうと思えただろうか。同じように「良かったね」と言ってあげられただろうか。

 少なくとも俺はこの時、桃華という女の子の人間性を見た気がしていた。大袈裟な表現だろうか。でも、そうだったのだ。

 俺が特別だったわけじゃない。きっと桃華は、誰が〝財布〟を落としても同じように行動したのだろう。

 だからこそ俺はより一層彼女に恋い焦がれた。誰に対しても優しくれる彼女に。小野悠真じぶんなんかのために一緒になって笑ってくれる彼女に。


 俺は――桐山桃華きりやまももかの優しさにこそ、かれていたのだ。


「…………」


 俺はもう一度、窓の外へと目を向けた。さっきまで雨が降りそうだと思っていた空には、うっすらと晴れ間が見え始めている。


「(…………俺は、この〝選択〟を後悔するだろうか?)」


 自問する。己の中の理性と悪魔に問いかける。

 桃華と久世が仲良くなったら傷付くだろうか?

 ――当たり前だ、傷付かずにいられるものか。

 久世と嬉しそうに話す桃華を見ても平気だろうか?

 ――平気なわけがない、きっと目をそらしてしまうはずだ。

 俺の知らないところで、あの二人が話していたら?

 ――やめてくれ、想像しただけで胸が痛い。


 俺は、この〝選択〟を後悔するだろうか?


 ――きっと、深く深く、後悔するだろう。

 この先も、今日と同じように苦悩する日が何度もやって来るのだろう。


 俺は桃華とは違う。他人のために笑ってやれるような人間じゃない。彼女のように優しい人間じゃない。

〝財布〟を拾ったら、おそらく持ち主を探そうとはせず、こっそり自分のものにしてしまうであろう人間だ。

 でも――


「(あの笑顔に、俺は何度救われたんだろう)」


〝財布〟の時だけじゃない。

 俺はあれ以前も、あれ以降も、あまり話さなくなってからでさえ、幾度となく彼女に救われている。あの優しい笑顔に、幾度となく救われている。

 一度や二度の話じゃない。直接的に、間接的に、そして勝手に、数えきれないほど何度も救われている。


 その度に俺は彼女に〝惚れた〟。あの笑顔の一つ一つが、〝俺が彼女に惚れた理由〟。

 そんな彼女のことを、俺は今さら〝好きでなくなる〟ことなど出来ないのだろう。今さら他の誰かを好きになることなど出来ないのだろう。あの七海未来ななみみくでさえ、桃華と比べればかすんでしまうほどなのだから。


 あの笑顔に救われた俺が、あの笑顔に惚れた俺が、彼女の〝一番の笑顔〟を願わずにいられるはずが、ないじゃないか。


「(……そろそろ、返済の時期だよな)」


 今まで何度も救われてきた恩を。

 金額に換えれば、とんでもなく高額であろう恩を。

 ――まずはガキの頃の〝一〇〇円玉数枚〟分から、返済していこうじゃないか。

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