第一五編 愚者の讃歌
「お待たせしました。ブラックコーヒーとフルーツケーキセット、バウムクーヘンでございます」
「…………」
俺がトレンチからコーヒーとケーキをテーブルに置くと、いつものように読書に没頭していた
彼女が手にしている本は、既に先ほどまで読んでいた恋愛小説ではなくなっていた。……以前からなんとなく知ってはいたが、彼女は本を読むスピードがかなり速い。速読というものだろうか。かなり文量のありそうな本を読んでいる時でも、気が付けばもう別の本に移っている。いっそ、本当に読んでいるのか怪しいレベルだ。
そして今彼女が読んでいる本の表紙には〝絶品! 一人飯のススメ〟と書かれている。
「…………お前、お嬢様のくせしてそんなの読んでどうするんだ? そんな知識、あっても無意味だろ」
「……私は本の内容そのものに〝意味〟なんて求めていないわ」
卓上のシュガーポットから大量の砂糖をコーヒーに加えつつ、七海未来は言う。
「膨大な量の文字で構成された一冊の本でも、そこから得られる知識なんて本当にごくわずか。既知の情報だけで構成されているような本だってある。でも私にとって、この世に価値のない本なんてただの一冊もないわ」
「……? なんでだよ? 本なんて、頭良くなるために読むもんじゃねぇのか?」
「……本気でそう言っているなら、貴方は相当な愚か者ね」
呆れたように息をつきながら、俺のことを見てくる七海未来。……こ、コイツやっぱ腹立つな。
「――すべての本には、筆者の価値観が詰め込まれている」
彼女は、テーブルの上に置かれた〝絶品! 一人飯のススメ〟の表紙をそっと撫でながら言う。
「その人がこれまでに何を見て生きてきたのか。何を感じて生きてきたのか。何が好きで、何が嫌いか。何を正義と思い、何を悪だと思うのか。得意なこと、不得意なこと。その人から見た他人の姿、世界の色。人種、性別、美醜、年齢、能力、職業、宗教、生活環境――どれか一つが違うだけで、同じ〝テーマ〟の本でもまったく別の価値観から記された一冊になる」
……静かに、流れるように言葉を
「だから、読書は面白いのよ。〝内容〟なんて二の次。私が読むのは、そこに記された文字だけじゃないもの」
――しかしだからこそ、俺にはそんな彼女が理解できなかった。
「――〝他人の価値観〟をそんなに重視するくせに、ラブレターは読んでやれないのかよ?」
「…………」
十数分前のやりとりを蒸し返す俺に、ピクリ、と、大量の砂糖をコーヒーに加え続けていた七海未来の手が止まる。
「……またその話? さっき答えは出したはずだけれど」
「ああ。でも、やっぱり俺には納得できない。お前はラブレターに価値を見出だせないかもしれないけど、俺はそうじゃないんだよ」
「…………」
「それに、お前にとってはラブレターだって価値のあるもんじゃないのかよ? あんなの、それこそ価値観の塊みたいなもんだろ」
「どうしてそう思うのかしら?」
「ど、どうして、って……」
ここに来て俺は、彼女が先刻のやり取りも含めて、今日だけでも何度も「どうして」と問うてきたことに気が付く。
最初は、単純に俺の考え方に理解を示されていないだけかと思ったが……違う。彼女は今まさに、〝俺の価値観〟を測ろうとしているのだ。
「……だ、誰のことを、どんな風に好きなのかが書いてあるのが、ラブレターってもんだろ?」
「浅い答えね。それがラブレターというものだと言うのなら、やはり私にとっては無価値な
「え……?」
疑問符を浮かべる俺に――七海未来は淡々と、しかし何故だかとても哀しそうな声色で、呟くように言う。
「――だって、
「!」
その、あまりにも残酷で――そしてどこまでも
そんな俺の無言を肯定と捉え、七海未来は続ける。
「『人は見た目じゃない、中身だ』……なんて嘘よ。人は、見てくれだけで簡単に他人を判断する。誰も彼も、私のことを好意的な目で見てくる――私の
サングラスとマスクに守られた少女は、その裏でどんな表情をしているのだろう。俺には、どうしても想像することが出来ない。
傷つき、悲しそうな顔をしているのだろうか。それとも、愚かな他人を蔑むような顔をしているのだろうか。
「……貴方が言った通り、普通のラブレターには〝誰のことを〟〝どんな風に〟好きかが書いてあるのかもしれない。でも、私に贈られてくるものに限って言えばそうじゃない。……私が人に好かれるような性格の人間じゃないことは、私が一番分かっているもの」
……きっと彼女は、これまでもたくさんの恋文を贈られてきたのだろう。
そして、その一枚一枚に、たくさん傷つけられてきたのだろう。
――美しい。可愛い。綺麗だ。可憐だ。
そんな言葉を幾百、幾千と贈られてきたのだろう。
そして――そんな言葉にこそ苦しむ彼女に、誰一人として気付いてはくれなかったのだろう。
他者の価値観を重んじる彼女が、価値観の塊であるはずの
「…………どうでもいいことを話してしまったわね。コーヒーが冷めてしまうわ」
そう言って、七海未来はなにかを誤魔化すように本を手に取り、俺から視線を切る。
俺はそんな彼女を見て……彼女の過去を察した上で、それでも、言わずにはいられなかった。
「――だけど、それはお前の偏見だろう」
「……え?」
俺の言葉を受けて、七海未来が初めて、ほんのわずかな動揺を見せる。
「『お前に贈られてくる
「…………」
七海未来は答えない。だが、その答えは聞かなくたって分かる。
「これまでがそうだったから」だろう?
「お前はさっき言ったよな? 同じ〝テーマ〟で書かれた本でも、筆者のほんの少しの違いだけでまったく別の一冊になるって。だったら、なんでそれをラブレターには適応しないんだよ? お前のことを見てくれだけで判断しない奴だっているかもしれないだろ」
「……それは……」
彼女はわずかにうつ向き、しかし、やはり答えることは出来なかった。
それは過去につけられた傷のせいなのだろうか。それとも、なにか別の理由があるのだろうか。それは俺には判断できない。
彼女ほど美しい少女の気持ちなんて、俺なんかに分かるはずもない。
だけど――それでも。
「――お前の勝手な偏見で、思い込みで、これからお前のことを好きになる全員があんな失恋をするなんて、あんまりじゃないか」
「…………」
七海未来は、黙ったままコーヒーカップの水面に視線を落とす。
そのサングラスの奥の瞳は、今何を思い出しているのだろう。
過去に受けた傷の痛みだろうか。それとも、ゴミ箱に無造作に捨てられた、何十枚ものラブレターたちだろうか。
「……さっきお前が言った通り、ラブレターを読んでほしいなんてのは、送る側の身勝手な願望なのかもしれない。俺だって、
そんな権利など、外野の俺にあるはずもない。いや……もっと言えば、七海未来のラブレターの扱いに対して口を出すこと自体、出過ぎた真似なのだろう。
「だけどせめて、お前にラブレターを送った奴の気持ちくらいは――」
――俺と違って、〝勇気〟を出した連中の想いくらいは――
「――受け取ってやってください。お願いします」
俺はそう言って、七海未来に向かって深く頭を下げた。
おそらく、これまで機械的に行ってきた〝喫茶店アルバイター〟としての一礼とは比べ物にならないほど、深く、深く。
「…………よく、他人のためにそこまで出来るわね」
七海未来が、ゆっくりとサングラスとマスクを外す。
「どこかの誰かが私に失恋したとして、それが貴方に何か不利益をもたらすの? 私がラブレターを読まなかったことで、貴方が何か損をするの? 何が貴方をそうさせるの?」
俺の価値観を測りかねている彼女は、たくさんの
晒されたその素顔は相変わらずの無表情で――そしてやはり、どうしようもないほどに美しい。
そしてそんな七海未来の素顔を見た俺は、ふと、自分に対して一つの疑問を抱いた。
――目の前にいるのは、今までに見たこともないほど美しい少女だというのに。
「どうして貴方は――」
どうして、俺は。
「――そんなに、
――
……いや、きっとこれこそが、七海未来の〝
「……俺には、ガキの頃からずっと好きだった女がいたんだ」
どうして好きになったのかも思い出せないけれど。
「俺はそいつのことが好きで……本当に好きで……でも結局、最後までその想いを伝えることはできなかった」
十年間も、あったくせに。
「……たしかにお前のことを見てくれだけで好きになる奴もいるんだろう。でも、たとえそうだとしても、お前にラブレターを贈った奴らは皆、『好きだ』とお前に伝えたくなるほど、本気でお前のことを想った奴らなんだよ」
手紙という形に、残してしまうくらいに。
「だから俺はそんな奴らを応援したい」
〝勇気〟を出した奴らを
俺がここまでする理由なんて、ただそれだけで十分だ。
「…………」
七海未来は、そんな俺のことを黙って見つめている。
その黒の瞳の奥にある感情は、やはり読み取ることができない。
そして彼女は、最後に一言だけ呟いた。
「――やっぱり、貴方は相当な愚か者ね」
先程も言われたその言葉に俺は――今度は不思議と、まったく腹が立たなかった。
★
翌日の放課後、俺はホームルームが終わるやいなや、すぐに教室を出た。
今日は普通にバイトの日なので、本来であれば教室である程度時間を潰してから向かうのだが、今日だけは別だ。というのも、普段夕方までのシフトを埋めてくれている大学生のアルバイトの人が急に風邪で休んでしまったらしく、店長が一人で店を回している状態だという連絡が来たからだ。
いくら平日は暇だといっても、客入りがゼロというわけではない。その状態でのワンオペなんて、流石に可哀想すぎる。「早く来い小野っちぃぃぃぃぃっ!」と嘆く店長が目に浮かぶようだった。
教師に見咎められうる勢いで階段を駆け下り、一階の廊下を抜け、下駄箱へと急ぐ。下校一番乗りだとか、そんなことを考えている暇など勿論ない。
そしてそこで俺は、下駄箱の前に、先客が居ることに気が付いた。
その人物はなんと――まぁ、なんとなくデジャヴを感じていたので薄々気付いてはいたが――制服姿の美少女、七海未来だった。今日はきちんと登校していたらしい。
「…………」
「…………」
俺はなんとなく物陰に姿を隠して――脳裏にちらつく店長の泣き顔を一旦
彼女の手には複数枚のプリント――いや、もう大体分かってる、どうせラブレターだ。
「ほんとモテるんだなぁ、アイツ」などと考えつつ、俺は心の中でニヤリとする。
そう、昨日までの彼女なら、間違いなくあのラブレターたちをゴミ箱に放り捨てていただろう。
しかし昨日の論争の結果、きっと彼女は俺の真剣な想いに心を打たれたに違いない。現に今だって手の中の、封筒に入ったままのラブレターたちをペラペラと興味なさげにめくっていき、そして――
――バサリと、下駄箱の隅に設置されているゴミ箱へと放り込んだ。
「――いや捨てるんかいっっっっっ!」
思わず物陰を飛び出して叫ぶ俺。そしてそんな俺を見もせずにスタスタと正門へ向かって歩いていく七海未来。
「おい無視すんなテメェッ!? 聞こえてんだろコラッ!?」
慌てて追いかけ、七海未来の正面に回り込む俺。すると彼女は無表情ながらも非常に面倒くさそうな顔をして、口を開く。
「貴方はたしか…………ボロブルマ、だったかしら」
「
もはやただの汚ねぇ布キレじゃねぇか。
「それで、なにか用かしら」
「用かしらじゃねぇよ! テメェなにまたラブレター捨ててんだよ!? 昨日のやり取り全部無駄じゃん! 俺頭まで下げたのに!」
「一応読みはしたけれど。……一枚につき一文字だけ」
「どんだけ限定的な譲歩!? もうそれ『七海さんへ』の〝七〟しか読めてねぇだろ!」
「でもやっぱり読むだけ無駄だったわ」
「でしょうね! そんな〝七〟ばっかり見たところで有意義なわけねぇだろ!」
「〝七〟の字の書き方一つでも相手がどの程度の人間かくらいは分かるわ。そしてあの中に私の気に入る〝七〟はなかったの」
「知らねぇよ! なんだよお前の気に入る〝七〟って!? どんなのだったら満足するわけ!?」
「印字相当」
「ハードル高ッ!? それもはやワープロソフトでラブレター作れって言ってるようなもんだぞ!?」
「そんな気持ちのこもっていないラブレターなんて即廃棄よ」
「どの口が言ってんだよ!? つーか手書きでも即廃棄みたいなもんだったじゃねぇか!」
連続でツッコみ、流石に疲れる俺。そんな俺に対し、七海未来は涼しい顔をして「そもそも」と切り出してくる。
「私は貴方の価値観を聞き入れはしたけれど、同意を示したつもりは微塵もないわ」
「はぁ!?」
なんだそりゃ。やっぱり昨日の会話丸々無駄だったってことじゃねぇか。……やばい、そうなると無駄に頭とか下げちゃった自分が超恥ずかしい。
しかしそんな俺の思考を読んだかのように、七海未来は「けれど」と言葉を続ける。
「昨日の話には、それなりに意義があったと思うわ」
「あぁ? どこにだよ、結局お前なんにも変わってねぇじゃねぇか」
「別に私が変わったとは言っていないでしょう。……ただ、昨日の話で私は――」
七海未来はわずかに、本当に少しだけ微笑み、そして言う。
「――世の中にはこれほどの愚か者もいるのだと、知ることが出来たのだから」
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