第一〇編 静寂

「はあぁぁぁぁぁ~……」


 バイト先の喫茶店で久世くせ桃華ももかを引き合わせた翌日、俺は登校して自分の教室に着くなり、いきなり机の上に突っ伏した。

 昨日はあまり眠れなかった。正確に言えば、眠りにはついたものの、質の良い睡眠をとることが出来なかった。

 原因は分かりきっている。自分の中にある、どうしようもないモヤモヤ、つまり――


〝桃華の恋を叶えてやりたい俺〟と、〝桃華のことを諦めきれていない俺〟という、二つの矛盾した〝本音〟のせいだ。


 昨日、久世と桃華が握手を交わしたとき、俺は当初の目的を果たしたという達成感を得るのと同時に、二人に対して、いや、久世に対して、確かな嫉妬心のようなものを抱いたのである。桃華から、俺が十年想い続けた相手から、あれほど想われている久世に。

 事実、あの後の俺は、たぶん嫌な奴だっただろう。客が来ないのをいいことに、暇な店長から暇潰しの食器磨きの仕事を奪ってまで厨房に引きこもり、桃華たちと話を終えた久世が喋りかけて来ても、どこか素っ気ない態度をとってしまった。元々、俺は久世とそこまで親しくしていたつもりはなかったが……それでも、罪悪感のようなものは抱いてしまう。

 なぜなら、昨日の件については久世には一切の非がないからだ。俺が勝手に桃華と引き合わせて、俺が話をさせただけ。桃華にとっては憧れの相手との夢の一時ひとときだったかもしれないが、久世からしてみれば突然、知らない女子二人の相手をさせられたようなもの。少なくとも俺だったらごめん被りたいシチュエーションだ。

 だから、俺は久世に対して「申し訳ない」と思うべきではあっても、嫉妬心を抱くような権利はない。

 ……だというのに。


「(あんな態度とっちまって……俺ってこんな最低な奴だったか……?)」


 俺はおよそ〝良い人間〟ではない。

 電車でお年寄りに席を譲ったことなんてないし、急いでいるときは信号無視くらいするし、困っている人を見ても声をかけられないし、「命は平等だ!」みたいな内容のテレビを見ながら、腕に止まった蚊を叩き潰せるような人間だ。

 しかし、だからといって自分が〝クズ〟の領域に達しているとまで考えたこともない。

 席を譲れなくても優先座席を空けたりはするし、意味もなく信号無視なんかしないし、助けを求められれば手を貸すくらいはするし、動物虐待のニュースを見れば「クソ野郎かよ、死ね」とそこそこ本気で怒れるような人間だ。

〝良い人〟ではないが、〝悪人〟でもない。世の中にいくらでもいるであろう〝普通の人間〟。それが俺だと思っていた。


 しかし昨日のアレは、俺にとっては〝クズ〟の領域に片足を突っ込んだ行いだった。なんの非もない久世に対する、あのような態度。

 後から自己嫌悪に陥るには十分すぎた。そのために俺は今、こうして朝っぱらから机に伏しているのだから。

 とはいえ、いつまでもこうしていても仕方がない。一時限目の開始まではまだ少しあるとはいえ、流石にこんな時間から堂々と机で寝られるほど、俺の神経は太くない。

 俺は気分転換をかねてトイレにでも行こうかと席を立った。別に尿意を感じたわけでもないが、顔でも洗えば多少はスッキリするかもしれな――


「あれ? やあ小野おのくん! おはよう! 良い朝だね!」


 教室を出た途端、そんな爽やかな挨拶が俺に投げ掛けられたような気がした。しかも、俺が今まさに罪悪感を感じていた相手の声だったような気がする。

 ……いやいや、そんなまさか。〝小野〟なんて町中で石投げりゃぶつかるくらいにはありふれた名前なんだ。きっと同学年の別の〝小野くん〟への挨拶だったに違いない。


「…………」

「お、小野くん!? どうして僕を無視して歩き去ろうとするんだい!?」


 ガシッ、と後ろから掴まれる俺の肩。俺はそれを無理やりほどいてやろうとして……まったく出来ない。なんだコイツ、どういう腕力してんだよ。


「……人違いです。僕の名前はナカムラです」

「いや無理があるよ!? 電話越しとかならまだしも、顔までバッチリ見えた状態での『人違いです』は流石に無理があるよ!」

「あ、あの、俺今急いでるんで。朝の挨拶なら明日まとめて聞くから、ちょっと離してくれない?」

「明日は明日の分の挨拶しかしないけどね!? 聞いたことないよそんな斬新な提案! と、というかそんなに急いで一体どこへ行くんだい? もうすぐ授業が始まるけど……」

「大丈夫だ。お前らは安心して待っていればいい。俺は必ず――ここに戻ってくるさ」

「本当にどこへ行くつもりなんだい!? 死地へ向かう戦士みたいなこと言ってるけど!?」

「死地? いや、俺が行くのはトイレだけど」

「ただトイレに行くだけ!? じゃあなんだったんだい、さっきの意味深な台詞は!?」


 ノリ良く突っ込んでくる男子生徒――久世真太郎しんたろうに、俺はあからさまなため息をつく。……そういえば、コイツは初対面から割とこういう奴だったような気がする。イケメン野郎のくせして、立ち位置はツッコミなのか。正直似合ってない。天然ボケキャラとかの方がよほど似合うだろう。


「それで、なんの用だよ? お前が俺に声をかけてくるなんて、ただ事じゃねぇな?」

「いやただ事だよ? 普通に朝の挨拶をしたかっただけだよ」

「フン、なるほどな。こんな公衆の面前で込み入った話は出来ないと――そう言いたいんだな?」

「まったく言いたくないけど!? というかどうしたんだい、小野くん!? 今日はいつにも増しておかしいよ!?」

「おい聞き捨てならねぇな。その言い方だと、俺が普段から多少おかしい奴みたいじゃねぇか」


 俺ほど〝普通〟という言葉が似合う男もそういないというのに、まったく失礼な奴である。

 俺がそんなことを考えていた時、俺の後方からキャピキャピした女子の声が聞こえてきた。


「あっ、久世くんだ! おっはよー!」


 さらに続けて、清楚そうな女の子の声。


「久世くん。おはようございます」


 続けて続けて、どこかギャルっぽい女の子の声。


「おは、真太郎くん。今日もイケてるね」


 またまた女の子の声、女の子の声……。そして、次から次へと女の子たちから声をかけられた目の前のイケメンは、爽やかな笑顔とともにこう答えるのだ。


「やぁ皆。おはよう。今日も一日頑張ろうね」


 …………。


「……滅びろ……滅びろ……久世コイツの頭に隕石突き刺され……突き刺され……」

「なんか物凄く不穏な言葉が聞こえてきたんだけど!? というかどうしてそんな凄い目で僕を睨むんだい!?」


 邪気を纏いつつ呪詛を吐く俺の姿に、久世がドン引きしている。

 なに引いてんだこの野郎。言っとくけどこれも〝普通〟だからな。男ってのは皆、モテる男を見れば邪気を纏って呪詛を吐く生き物だからな。

 ……自分で言っておいてなんだが、絶対違う自信があった。


「しっかし、お前本当にモテるんだな。腹立つ」

「な、なんだいいきなり?」

「そのくせ、誰とも付き合わないんだもんな。なんなんだよお前。まさか男色そっち系なのか? ……はっ、まさか!?」

「うん、その『まさか』はないから! 自分の身体を抱き締めて警戒するような目を向けるのはやめてくれないかい!?」

「なんだ、違うのか」

「当たり前じゃないか……」


 俺が警戒のポーズを解いたところで、久世が脱力したように息をつく。

「じゃあなんで誰とも付き合わないんだよ?」と聞くと、彼は珍しく悩んだような顔をして、そして言ってくる。


「実は、僕には昔から、少し苦手な女の子たちが居てね……」

「苦手な女?」

「うん、それが――」


 久世が何かを言いかけたその時だった。


「――――――――」


 ――朝の喧騒に包まれていた廊下に、まるで世界から音が消えたかのような静寂が訪れた。

 俺が何事かと周囲を見回すと……その場にいるすべての生徒が、ある一点を見つめて固まっている。


「――来たよ。〝彼女〟だ」

「えっ……?」


 久世がそう言ったのとほぼ同時に、廊下に一人の女子生徒が現れた。

 学園指定の制服姿に、同じく学園指定の上履き、学園指定の学生鞄。高校生として何一つ逸脱したところのない彼女は、しかし、この場において明らかに異端だった。


「……綺麗」


 どこからか、女子生徒の呟きが落ちた。そしてそれは奇しくも、俺が今抱いていた感情と完全に一致していた。


 ――俺は人生で初めて、〝桃華よりも可愛い女〟というものを見た。


 透き通るように白い肌。結われていない、絹のように流れる黒髪。

 どことなく憂いを帯びた黒瞳こくどうは、まるで周囲の様子など映っていないかのように、興味すらないかのように、ただ真っ直ぐ、その手に持った一冊の本へと向けられている。

 そして何より、最早恐怖すら感じるほどに精緻せいちな顔立ちに、場の全員が目を奪われていた。


「(な……なんだありゃ……!? ほ、本当に人間かよ……!?)」


 比喩ではなく、正に〝人形のよう〟という表現がピタリと当てはまる。それほどまでに、目の前の女は現実離れした美しさと可憐さを備えていた。

 そんな、世界から音すら奪う美しさを持つ彼女に対し、最初にその静寂を破って見せたのは、やはり学年一のイケメンこと、久世真太郎だった。彼はやや緊張した面持ちで、しかし先程までと同じように笑顔で、彼女に向かって挨拶を――


「お、おはよう、――」

「――――」


 ――しようとして、まるで蛇に睨まれた蛙のように、いや、竜に睨まれたアリのように固まってしまった。

 それもそのはず、目の前の少女は静かな瞳で、しかしその奥に心臓を握り潰されるかのような錯覚を起こすほどの殺意をたたえて、久世のことを睨み付けていたのだ。

 隣に立っていた俺すら、思わず膝が震えてしまうくらいで――と、そこまで考えたところで、俺はふと、この状況に覚えがあることを思い出した。

 そう、あれはたしか、久世が〝甘色あまいろ〟に来たばかりの時に――


 ――彼女の名は……七海未来ななみみく。僕の――幼馴染みだよ――


「まさか……〝七番さん〟……?」


 俺のその呟きは静かな学園の廊下に、嫌になるほど大きく響いて、そして消えていった。

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