第四編 来訪者

「小野っちー。七番さんにこれ持ってってー」


 バイト先の喫茶店で店長にそう言われ、俺はさらりと返答する。


「あっはい、分かりました。ゴミ箱にでも捨てとけばいいですか?」

「いやなにも分かってないよねぇっ!? 七番さんに持ってけっつったんだよ! なんだ!? あたしの作ったケーキは生ゴミも同然だとでも言いたいのか!?」

「す、すみません。でも生ゴミって基本、〝元を正せば食べられたはずのもの〟ですよね」

「あ、あぁ、そうだな。改めて食品ロスの問題について考えさせられる――――じゃねぇよ! あたしのケーキは現在進行形で食えるっつーの! いいからさっさと持ってけ!」


 尻を蹴り飛ばされたかのような勢いと共に厨房を出た俺は、仕方なくトレンチに載せられたブラックコーヒーとケーキのセットを手に、常連さんの待つテーブルへ向かう。コーヒーから立ち上る湯気が鼻腔を通じて体内に入ると、自然と目が冴えていくような感覚を覚えた。

 というのも――――今日の昼休み、改めて桃華ももかが恋に落ちたことを実感させられてから、俺は〝心ここに在らず〟の状態に陥っていたから。

 午後の授業内容はおろか、誰かと何かを話したのかすら定かではない。自分があの後、一組から戻る前に桃華に声をかけることが出来たのかさえ。


「(気付いたら喫茶店の前にいたし……というか、そんな状況でもバイトのシフトは忘れないとか、もしかして俺、社畜の才能あるんじゃないか……?)」


 そんな気付きたくもなかった才能の片鱗を感じつつ、俺はぐるりと店内を見回した。こういう気分が落ち込んでいる日にはとりあえず、仕事に没頭するに限る。……この考えがすでに社畜的思考な気がしないでもないが、今は気にしないことにしよう。

 しかし今日も今日とて、平日の喫茶店はものの見事にガラガラだった。よくこれで経営が成り立っているものだと感心するほどに。……まぁ店長曰く、「土日の売上げで十分補えてる」だそうだが……それにしたってガラガラすぎやしないだろうか。おかげで仕事に没頭しようにも、やることがほとんどありやしない。


「(客なんてあの常連しかいないじゃねぇか。こんな状態なのに新規のアルバイトを募集するとか……)」


 そこまで考えて、俺はなんとなく厨房の方を振り返る。位置的に、中にいる店長や他のスタッフの姿は見えない。

 ――アルバイト募集に失敗した俺のことを、店長は特に咎め立てはしなかった。

「まぁ十中八九失敗するだろうとは思ってたしな」なんて言いながらケラケラ笑う彼女を見たときは顔面にトレンチを叩き付けてやりたくなったが……冷静になって考えれば、あの人は今日の俺の様子がおかしいことに気が付いて、わざとそんな風に振る舞ってくれたのかもしれない。そもそも数日前から、店長あの人は俺のことを心配してくれていたしな。


「(そう考えるとなおのこと、このままじゃ駄目だよな……)」


 散々迷惑や心配をかけているのだし、やはりアルバイトの一人くらいは見つけて、少しでも店の役に立ちたいところだ。しかしあの「新規アルバイト募集」の用紙をどこかで失くしてしまったのが痛い。いったいどこで失くしてしまったのだろうか。少し記憶が曖昧になってしまっている。

 また店長に作ってもらうか、それともいっそ自作してやろうか……なんて考えながら、俺は店内の最奥の二人掛けテーブル席の前に立つ。


「お待たせ致しました。ブラックコーヒーと生クリームシュー、そしてレアチーズケーキでございます」

「……どうも」


 ちらりと一瞥いちべつだけして、無愛想に応じてくるのはうちの喫茶店の常連客の一人、通称〝七番さん〟。いつもこの七番テーブルに座ることから店員の間でそう呼ばれている彼女は、今日もいつも通り、難しそうなタイトルの本を読みふけっている。

 相変わらず、サングラスとマスクのせいで正確な年齢などはさっぱり分からないのだが……店長が言うには「あの人は絶対美人!」らしい。俺にはいまいちピンとこなかったが、店長もアレで女だし、なにか勘のようなものが働いたのかもしれない。

 俺は〝七番さん〟に「ごゆっくりどうぞ」と告げてから綺麗に一礼し、踵を返して厨房へと戻る。……先日桃華に「格好いい」と言われてからというもの、この一連の動作に対して妙に力が入ってしまっていた。


「(って、結局また桃華のこと考えちまってるし……女々しいな、俺……)」


 仕事に没頭すると言っておきながら結局これだ。俺は自分に〝男らしさ〟なんて求めちゃいないが、それでもこういう〝すぐに切り替えができない自分〟にはつくづく嫌気がさす。


「(掃除でもしようかな……)」


 客入りが悪い時、俺の仕事はもっぱら店内清掃になる。仮にも飲食店である以上、清潔感の有無というのは思っていた以上に重要度が高い。特にテーブル回りは、客が長時間居座ることを想定すると、たった一つのゴミやほこりが目につくというだけで、顧客満足度に大きな減点を食らうことになりかねない。

 ゆえに、俺は一〇以上あるテーブル席を一つ一つ丁寧に、細かいところまで掃除することがほぼ日課のようになっていた。


「(……しかしあの人、ほんといつも本ばっかり読んでるな……)」


 一番テーブルから順番に掃除を進め、四番テーブルまで来たところで、視界内に例の〝七番さん〟が映り込む。

 彼女はほとんど毎日と言っていい頻度で来店するのだが、いつもあの席で本を読んでいる。それも、毎日違う本だ。どんなに分厚い本を読んでいたとしても、次の日には別の本に変わっている。

 勉強家、というよりは本の虫、といったところだろうか。なにか目的があって本を読んでいるのではなく、〝本を読むために本を読んでいる〟というか。

 俺から言わせれば、本を読むならあのサングラスはどう考えても邪魔だと思うのだが……深くは突っ込まないでおこう。

 と、流石にジロジロ見すぎたのか、〝七番さん〟が一瞬だけ顔を動かし、こちらの方を見た気がした。慌ててテーブル拭きに戻る俺。いかんいかん、常連相手に粗相をしでかすと、店長がうるさいからな。


「ごめんください」


 その時、カランカラン、という古き良き喫茶店のドアベルの音と共に、ハキハキとした通りの良い男の声が聞こえてきた。


「いらっしゃいませ、お好きなお席へどう……ぞ……」


 すぐに布巾を仕舞いつつ、定型文と共に出迎えに向かおうとして――――思わず言葉を失った。

 理由は、その人物がとんでもないイケメンだったから……ではない。いや、たしかに相当なイケメンではあるのだが、俺の口が動かなくなったのはそれが理由ではなく。


「すみません。こちらの喫茶店で新規のアルバイトを募集していると伺ったのですが」


 ――――その男が、俺の〝想い人の想い人〟――――久世真太郎くせしんたろう本人だからだった。

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