そうだ、未来、いこう。

菱河一色

そうだ、未来、行こう。


 いつの時代になっても、将来という曖昧な概念は、基本的に不安に包まれているものだ。


 俺は机の上に2㎝だけ浮遊させている半透明のキーボードから手を放し、数行の文字列しか表示していない視覚デバイスを切った。そのまま椅子の背もたれに体重を預けいつもの角度まで傾けさせると、白い壁面に埋め込まれたガラスに壮大な自然の映像と環境音が流れ始める。


 書けない。


 こうなって何日経つのか、もう数えていない。いや、憶えていない。とにかく、文章が書けなくなってしまってから、かなりの月日が過ぎている。このままでは小説家という職を失いかねない。元々それは怪しいところだという話は抜きにして。

 執筆の休憩として設定したはずのヒーリング映像も、こうして見ていると段々とストレッサーに変化してきている気さえする。煽ってんのか、過去の俺。

 いや違う。これを見て聴いて脳を休めていた頃の俺はまだまだ活発に執筆に取り組めていたんだ、今の俺の想像力及び創造力が減衰してきているだけ。


「……駄目だ」


 壁一面に広がる癒しの映像を閉じ、天井を仰ぐ。嫌になるほど真っ白な壁紙には染みの一つもありはしない。


 完全に詰みだ。ただでさえ少ない収入も細り、貯金もまともな額などあるわけがなく。そんな状況に陥ってもこの指は小説に対して不動を貫いているときた。

 これ以上、続けられない。続けられる気がしない。頑張れない。大きな溜息が口の端から零れ落ちる。

 そんなときに思い浮かべるのは、とある一つの懐かしいフレーズ。


「そうだ、未来、行こう」

 










 2050年。


 簡潔に言うと、日本は繁栄した。


 それまでのスピード感あふれる衰退具合からは想像もできないほど鮮やかに、日本は蘇ってみせたのだ。


 労働人口減少により低賃金を提示する企業は早々に淘汰され、20年代後半の最低賃金の大幅値上げも相まって、日本経済は好転。相対的貧困率は2012年の16.1%から1.8%にまで低下し、圧倒的世界一位に輝いた。


 年金制度は一時は崩壊寸前まで進行したものの、今では安定した社会制度として健全に運用されている。国民医療費もとある年を境に減少傾向に切り替わり、毎年の予算案を圧迫することもなくなった。


 予算案と言えば、国債問題も解決していた。それによって予算総額自体は減少したが、政策経費や防衛費は増加するという経過を辿っている。更に公的研究資金も増加したことで科学研究分野も大きく発展し論文競争力もようやく上昇、人口当たり論文数も20番台中盤になるまで盛り返した。


 社会福祉も充実し、結婚や育児ができる余裕が生まれ、合計特殊出生率は大幅に上昇、2034年には2.10を上回るという驚異的な回復を見せた。2053年に人口が1億を下回るという厚生労働省の試算は外れ、少子高齢化も解決しつつある。


 こうして細かい数字や小難しい単語ばかりの文にして表そうとしてみると、随分と虫のいい話であり、如何にも非現実的すぎると思ってしまう。

 それでも、これが2050年の日本であることは紛れもない真実だ。


 最早、日本という国は完全に先進国に返り咲いたと言えるだろう。

 それもこれも、たった一つの革新的な発明が為されたおかげであった。



 時空転送技術。いわゆるタイムトラベルである。



 2020年末に突如として日本政府が発表したそれは、過去へも未来へも自在に移動できるという、全世界が待ち望んでいた大発明そのものだった。

 しかし同時に、誰もが、そんな大それたものを一般人が個別に利用できるとは思っていなかったことも事実である。タイムパラドクスとか色々大変なことになるだろうから。


 日本政府はそんな予想を大胆に裏切り、2025年に国営の時間移動会社、「日本時空転送会社(株)」を設立した。

 それと同時に発表されたのは、「未来送りプロジェクト2100」という計画。


 日本時空転送株式会社を通して、貧困に喘ぐ人、癌などの完治が難しい病気に苦しむ人、安定した余生を過ごしたい人、より先進的で楽な生活を望む人などのうち18歳以上の希望者を未来の日本に送ることで、現在の日本の負担を減らし、それまでに社会基盤を発展させ整えてしまおうという、なんとも奇想天外な話だった。


 ところが、これが驚くほどうまくいった。


 更なる労働人口の減少を危惧し、各企業は揃って賃金上昇に努めた。今働きたくない人、働けない人は未来へ流れるからだ。


 老年人口を大幅に未来へ送ることで年金問題、医療費問題を強引に解決。未来のなおいっそう発展した医療や経済状況により、病に苦しむことも僅かな年金で苦心することもない穏やかで安定した老後を過ごせるということで、両得であった。


 未来に送られる際に国債を予め購入してもらい、未来で償還するという荒業で借金問題も片付けた。しかも今買えば買うほど、未来で金利で得をする方式だから皆がこぞって買い求めた。


 勿論、希望者全員が行けるわけではなかった。しかし行って帰って来られることを総理大臣や国民的アイドルなどが実証してみせたため、希望者は殺到し「そうだ、未来、行こう。」はその年の流行語大賞にも選ばれた。


 2050年の今はその波も大方落ち着き、「未来行き」の希望は一週間足らずで判定されるようになっていた。この時代もそれなりに発展したことで、需要が減少してきたのだ。




 さて。


 俺の希望が受理されてからはすぐだった。

 周囲の数少ない友人には別れも済ませた。親は既に未来で待っている。国債も買った。少ないが印税の振込先も未来の口座に変更した。

 心残りはない。どうせ未来さきが見えないのなら、先に行ってしまえばいいのだ。日本政府により未来の生活の保障もされている、帰りたくなったら帰れる。デメリットがないではないか。


「では、今回の未来行きを希望する方はこちらの装置の中で転送をお待ちください」

「はい」


 係員の誘導に従い、大仰な機械の中に入る。中高の教室くらいの広さのそこには、俺の他にも数人が乗り込んでいて、いずれも希望に満ちた表情をしている。


 胸が躍る。

 俺たちは静かに、未来へ飛ぶ、その時を待った。
















 未来

 1.現在の後に来る時。これから来る時。将来。

 2.仏語。三世の一。後世。未来世。死後の世。来世。


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