第二章

第二章

「一体、どこのおたくへ訪問するんですか。」

と、道子はバスの中で素雄に聞いた。名前は山口さんと言っていたが、それだけではちょっとわからなかったのだ。

「その山口さんという人はどんな人なんですか?」

好奇心からちょっと聞いてみる。

「ええ、一寸ばかり精神を病んでいらっしゃるのですが、悪い方ではないですよ。性別は女性の方です。」

と、素雄は答えをだした。

「精神ですか。」

実のところ、道子はそういう人が苦手だった。

「まあ、行ってみればどんな人なのかわかります。かえって、無駄な知識はない方がいいのではないかと思いますよ。」

素雄はさらりと言った。

「まあでも、たぶん、あたしたちが苦労している、体を病んでいる人たちよりはよほど楽なんでしょ。」

と、バスの中では道子はそんなことを呟いていた。そう、でも、それができたのは、バスの中だけだった。

「どうせ、三日間だけなんだし、たいしたことはないわ。」

道子は、そう笑っていた。

「まもなく、三四軒屋、三四軒屋に到着いたします。お降りの方は、押しボタンでお知らせください。」

と、バスの車内アナウンスが鳴った。素雄は、すぐに、そこでボダンを押した。

「ここで降りるんですか。」

バスが止まったところは、市営団地の真ん前であった。市営団地といっても、同じ民間が経営しているアパートとか、マンションとはかけ離れた建物で、真っ白な外壁の四角い建物に、へばりつくようにくずの葉が巻き付いていた。ほとんどの部屋が、空室になっていて、人が住んでいる部屋は、二つか三つくらいしかなかった。こんなところ、本当に女性が住んでいるのだろうか?と思われるような、ボロボロの建物。その建物に、普通の女性だったら、住みたいという気にはならないだろうと思うのだが。

「ここですよ。早くおりましょう。」

素雄に急かされて、道子は、バスを降りた。なんだか、近くに清掃工場でもありそうな、臭いにおいがした。

素雄は、市営団地の階段を昇って行った。いくつか部屋に出くわしたが、本当に人が住んでいるとは思えないほど、どのドアも、つるが巻き付いていたり、ドア自体がさびていて使えないのではないかと思われるところもあった。

「ここです。」

二階の廊下を歩いて、いくつかさびたドアを通り過ぎて、一番奥の部屋へ来た。このドアも、やっぱり人が住んでいないのではないかと思われるほどさびていた。その表札に、へたくそな字で、山口晴美と書いてある。

「今日は。」

インターフォンもないドアだったが、素雄は、平気な顔をしてドアをたたいた。すると、部屋の中から、はいではなく、はええいというような発音でおかしな返事が聞こえて来た。

「こんにちは、海辺の会社の、吉田素雄ですが。」

中で何か声がしたのだが、それがどういう意味を言っているのか、は不詳だった。ただ、発音だけを聞き取れば、

「はえええい、だうぞおへえりくださえ。」

というような感じの言葉だったのである。

「ははあなるほど、山口晴美さん、また薬を大量に飲んだんですか。」

素雄は、そういいながら、勝手にドアを開けた。ちょっと、いきなり入るんですか?と道子は驚いたのだが、そんなことを構わずに素雄はどんどん入っていく。玄関は、運動靴が一足あるだけであった。他に靴らしきものはどこにもなかった。それも紐靴ではなく、子どもが学校で履く上履きのような形の靴。余分なものを買わないようにしているのかとも思われたが、それにしては、おかしな靴であった。素雄は、勝手に草履を脱いで、廊下から、居室に入った。おかしい、人が住んでいるのだったら、廊下に芳香剤を置くとか、ちょっとした絵を飾るとか、そういうものがあってもいいはずなのに?

素雄はどんどん、居室の中に入っていく。がちゃんとドアを開けると、その居室の中央に小さなちゃぶ台があり、その隣に、ボロボロの布団が敷かれていた。正面には、古臭い形のテレビが置かれていた。後はなにもなかった。そう、何もない。洋服ダンスも、ドレッサーも、何もないのである。

中央に置かれたちゃぶ台の前に、一人の女性が座っていた。小さなテレビが、くだらないお笑い番組を大音量で放送していた。

「晴美さん。人が来たんですから、テレビは消しましょうね。今日は、こちらはよく晴れています。どうでしょうか、公園でも散歩してみますか?」

そういいながら素雄はテレビの主電源を切った。晴美さんと言われた女性は、再度テレビをつけようともせず、ただ、天井を見つめて、あーあ、と声をあげている。

「どうですか。公園、散歩してみませんか。薬なんか飲むよりよほどいいと思いますが。今日はいい天気だし、どうでしょうか。」

部屋の周りは、カーテンというより洗濯物がかかっていて、何だか薄暗い部屋だった。本来は、ベランダに洗濯物を干すのが通例だが、それもされていなかった。

「どうせなら、洗濯物は、外に干すのが通例ではありませんか?ちょっとこんなにいっぱい、洗濯物を部屋の中に干していると、何だか、洗濯ものがかわいそうですよ。」

と、素雄は、そういって、洗濯物を手に取った。窓を開けると、カーっと光が入ってきて、なんだか急に真昼の明るさになったようであった。この落差は道子も驚いてしまうほどである。さすがに、素雄は、女性の下着を取って干すという事はしなかったけれど、それ以外の洋服などを全部干してしまった。

「はい、持っているものは全部干しました。どうですか。洗濯ものも干してしまったんですから、ご飯にはまだ時間があるし、外を散歩してみませんでしょうか?」

もう一回、素雄が言うと、

「そおとおにひといる?」

と彼女は言った。通訳すると、

「外に人はいるか?」

という意味である。道子はそれよりも、薬を大量にのんで、ふらついているのが気になるのだが。

「人なんてどこにでもいますよ。だけど、あなたに声をかける人はいないと思いますから、安心してください。」

「んあらいや。」

と彼女は言った。これを通訳すると、それなら嫌だという事であった。

「薬をどれくらい飲んだんですか。」

道子は、このように発音が不明瞭であるのなら相当飲んでいると思ったので、それをまず聞いてみた。

「このひとあれ?」

晴美さんは素雄に言う。素雄が、研修のため、手伝いに来てくれている人だと説明すると、彼女は、にこやかに笑うというか、にんまりした表情で笑って、

「そう、あたしあまぐうちあるみ。ようろうしく。」

というのである。どうやら人間嫌いではなさそうなのだが、ちょっと人に対してある感情を持っているらしい。

道子は、この人が、山口晴美さんであることは、素雄から聞かされていたが、こういう風に、言葉がはっきりしないのは、予想外だったので、ちょっと驚いていた。

「はい、山口晴美さんね。それよりも、薬をどのくらい飲んだのか気になるの。教えてくれる?」

道子は、もう一回同じことを聞いた。

「さんううじょう。」

と彼女は持っていた薬の袋を取り出す。確かに医者からもらったものであろうが、薬の袋は空っぽになっていた。道子の推理が正しければ、飲んだのは三十錠だ。そういう事なら、大変な大問題だ。本来、薬というものは、医者からもらった規定量をのまなければ、効果を発揮しないはずだ。変に飲みすぎてしまったら、とんでもないことを起こしてしまう可能性がある。

「すぐに、飲み込んだ薬を吐き出させないとだめなんじゃないかしら。いや、若しかしたら病院に行って、胃洗浄とかしてもらわないと、だめかもしれない。」

道子は医者らしくそういう事を言ったが、素雄はその言い分には応じなかった。その代わり、

「また、どうして薬を大量に飲んだの?寂しかったから?」

と聞く。それは、道子から見て、小さな子供にでも話しかける様に、優しいのである。それが道子には、一寸癪に障るのだが。

「だってえ、」

と、晴美は嫌そうな顔をした。

「其れしか、あたしの事慰めてくれるものもないし。みんな、あたしのことを、必要のない人間だって、そういってるもん。」

「そんなことないわよ。薬を大量に飲むというのは、下手をしたら、死んでしまう可能性だってあるかもしれない。ほら、あなたも知っていると思うけど、マリリン・モンローとか、ジュディ・ガーランドとか、いろんな人がそれが原因で、命を落としたじゃないの。」

道子は彼女に「一般的なこと」を言ったのだが、晴美はさらに怒りの顔をする。

「だってえ、あたしが、楽になる方法何てそれしかないんだもんね。あたらいているしとは、そういうことしていいって認められてるけどさあ、あたしが助けてといえば、何だこいつって、目を吊り上げて、怒るでしょう。それはやっぱり働いてないからなのよ。働いてないんだからあ、みんなあたしの事、必要ないと思ってるのよ。必要ないからあたしを家から追い出して、こんなボロアパートに閉じ込めるんでしょう。それから解放してくれるのはさあ、薬だけなのよ。それを大量に飲んで何が悪いの?あたらいているしとは、そんなに偉いのかしらあ。」

「それを言うんだったら、あなたも、どこかで働いてみればいいじゃない。はたらいてないと言われるのが嫌だったら、そうするしかないでしょう。」

道子が医者らしくそういう事を言うと、晴美はまた怪訝そうな顔をした。

「いやいや。道子先生。そういう事を言うのなら、当の昔にやっているはずですよ。そういう事ができるのなら、彼女はオーバードーズなんかしないで済むと思います。」

と、素雄がそんなことをいった。道子は、ちょっとじれったくなる。

「だったらなんで行動に起こさないのかしらね。」

その言葉を無視して、素雄は晴美に、ちょっと立てますか?と聞いた。完全にふらついているから、横になったほうがいいというのだ。素雄が、右手を差し出すと、晴美は、うえ、と呻き声をあげて、咽喉にたまっていたものを吐き出した。それを見て、道子はまた気分が悪くなった。素雄は、それについて全く文句も言わないで、吐き出したものを雑巾で拭いて片付けたが、部屋は、血液とはまた違うその臭いにおいで、充満してしまった。道子は、逆にそれのほうが気持ち悪くなって、困ってしまったのだが。

「気持ち悪い、、、。」

思わず口に出していってしまうと、素雄が、そんなことを言ってはいけないと彼女を注意した。

「じゃあ、横になったほうがいいかもしれませんね。おかげで詰まっていたものは全部出せた。とりあえず今日は、少し眠って、また次の事を考えればいいでしょう。」

素雄は、ぼんやりしている彼女にそういって、彼女に布団に寝てもらうように促した。その前に、洋服を変えるとか、そういうことをしたほうが衛生的だと道子は思ったが、そういうこともできなさそうなほど、ふらふらになっていた。もはや、取り合えず寝てもらうしか、出来る事はないのではないかと思われる。

素雄に支えてもらって、晴美は布団に寝た。それでは、と素雄は静かに掛布団をかけてやった。本当に眠ったのか、それとも薬の成分のせいで、意識がぼんやりしているのかは不明だが、彼女はちょっと叩いただけでは反応しなくなった。

「それでは、ちょっとへやを片付けますか。」

素雄はそういって、干したままになっている洋服をたたみ始めた。テレビの近くにある洋服ダンスは、空っぽだった。素雄は、上着やズボンなどを、手早く洋服ダンスに入れていく。そして、悪い足を引きずり引きずり、ドアを空けて部屋を出、粗末な台所に行って、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫には出来合いのインスタント食品ばっかり入っている。だが、素雄は冷蔵庫の隅に、乾燥わかめが入っているのを見つけた。あと、ガスコンロに小さな鍋が置いてあった。逆を言えば、ほかに調理器具は何もなかった。その鍋をきれいに洗って、素雄は、鍋の中に水を入れ、火にかける。瓦斯が止められてなくてよかったと素雄はつぶやいた。そして、水が沸騰すると、自身で持ってきた鞄の中から、固形スープの素を取り出して、その中に入れた。次に、わかめを砕いて鍋の中に入れた。冷蔵庫には卵が入っていたので、それを静かに割って、中に入れ、かき混ぜてから火を止めた。台所には包丁があったが、ほとんど使っていないらしく、刃が変色していた。素雄はその包丁を取って、鞄の中から砥石を取り出して包丁を研ぎ始めた。包丁を研いだ次は、まないたをあらって、ぶっきらぼうに置かれているお皿も洗った。

「そんなことまでするんですか。」

後を追いかけて台所にやってきた、道子が驚いてそんなことをいうと、

「ええ、この人は、食べ物の事に本当に無頓着なんです。それでは、栄養がないでしょう。ですから、少しでも調理器具がきれいになっていれば、ちょっと食べ物に関心を持ってくれるかもしれない。」

そういう意味なのかあ、、、。

「まあ、いずれにしろ、こんなことしても、彼女は変わらないんじゃありませんか。単に、薬でもうろうとなっているだけで、その間に、こんな風に掃除なんかしたりしても。」

「はい、変わりません。」

道子がそういうと、素雄は静かにいった。

「でも、変わってくれるきっかけができるかなと思って、ほんの少しでもいいから、気が付いてくれるかもしれないと思って、こういう事をしているんですよ。どっちにしろ、彼女は、今を生きていくしかできないでしょう。これ以上、変わることもできないかもしれない。でも、これをしていれば、少しでも彼女は、生きようと思ってくれるかも知れません。」

「変なこと言うわね、変わらないと言っておきながら、変わるかもしれないなんて、矛盾したこといって、平気だなんて。」

道子は、またこの人は変なことをいっていると思いながら、一寸溜息をついた。

「そうでしょうか。確かにそうかもしれないですね。まあ、矛盾した考えかもしれないですよ。でも、ッ精神の世界というのは矛盾でも信じないといけないんですね。」

と、素雄は言う。矛盾でも信じないといけないってどういう意味なんだと道子は思ったが、そのときは口に出さないで置いた。

「道子さん、彼女の様子見てきてくれませんかね。僕は、ちょっとガスコンロの掃除をしますので。」

素雄に言われて、道子は、布団のほうへ行った。

「なんだか眠り姫みたい。きれいな顔してるわ。」

思わず道子はその晴美さんの顔を見て、そんなことをいった。

「静かに眠っていますかね。これがもしかしたら、彼女にとっては一番の幸せなのかもしれないですよ。それを得たくて彼女は、大量に薬を飲んだんじゃないですか。」

台所から、素雄の言葉が聞こえてくる。そうなの?それなら、病院に行って、しっかりと治してもらえばいいじゃない。それなのになぜ、人に頼りっぱなしで、自分は寝ているだけなのかしら。

「全く、ほんと、幸せそうに眠ってるわね。」

道子は、ちょっと彼女を皮肉るように言った。

「まあ、そうですね。彼女の問題点としては、彼女が、そうなるには、大量に薬を飲まないと居られないという事ですね。それがきっと彼女にとっては、非常にむずかしいところで、そのせいで働きにもいかれないんですよ。」

「不眠症という事なの?」

道子は、そう聞いた。

「まあ、医学的に言ったらそうなるんでしょうね。眠れないと、悩んでいることや、困っていることが増大してしまいますからね。だから、体の疲れも取れなくて、結果、仕事などに支障をきたしてしまうんでしょうね。」

と、素雄が答えた。まあ、そういう事なんだろうが、それなら、早く病院に行って、すぐに、治してもらえばいいのに、と思うのだが、、、。不眠症の薬なんて星の数ほどあるじゃないか。

「今は彼女には、仕事もないし、居場所もありません。だから定期的に僕たちがこうして来てやることによって、彼女は、少しだけでも、生きようと思ってくれるのではないでしょうか。まあ、僕たちは、命を救うという事をしているわけではないけれど、なにか役立っているという事だと思います。」

ふいに、晴美さんの口が動き出した。わざとそういうことを言っているのだろうか。それとも、眠ったまま、そういう事を言っているのだろうかは不明だが、その言葉は道子にはこういう風に聞こえたのである。

「しにたい。」

つまり、「死にたい」という事になるのだろうか。それでは彼女、自殺を考えているという事だろうか。

「彼女は、学校でいじめにあったんです。ですが、それを親御さんたちは、余り深く考えてくださらなかったようで。それで彼女は荒れて、家を追い出されてしまったそうなんですよ。」

と、素雄が、足を引きずりながら、布団のほうへ戻ってきた。もう、台所は見違えるようにきれいになっていた。

「たったそれだけで、こんな風になってしまうのかしら。それでは、」

と道子は言いかけたが、素雄はそれ以上言わないでくれと言った。甘えているとか、、努力が足りないとか、そういう言葉は、毒と同じだと。

「でも、最終的には本人の努力なんじゃないかしら。」

道子はそういうが、

「其れはどうでしょうか。それに気が付いてくれれば、こうはなりませんよ。」

と、素雄は言った。

「そうなってしまった人たちを、弱い人だとか、だめな人だとは、絶対に言ってはいけないんです。彼女は、そうするしか、ほかに出来なかったんですから。」

他にできなかったか。せめて、躓いたとき、誰かがそばにいてくれれば、こんな姿にはならなかったのではないだろうか。

「親御さんとかは、このような生活をしているのは、知っているのでしょうか。」

道子は素雄に聞いてみる。

「はい。知っていると思います。でも、どうにもできないから、放置していくしかないですね。触れてしまうと彼女も傷つくし、親御さんも嫌な思いしかしないでしょうから、僕たちが手つだうしかないんですよね。そういう物です。精神障害って。」

道子は、静かに眠っている彼女を、じっと見つめた。その眠った顔は本当に幸せそうだ。それを少しでも得させてやることが、自分たちの使命だという素雄さんの説明もわかるような気がした。

「どうにもならないけど、僕たち海辺の会社の仕事は、こういう事なんですよね。」

素雄は、そんなことをいって、もう帰ろうと促した。待っていると彼女は、夕方まで目を覚まさないという。

「ねえ、素雄さん、ここで待たせてもらう訳にはいかないかしら?」

道子はふいにそういう事を言った。

「彼女、目が覚めたとき、ここに誰もいなかったら、可哀そうだから。」

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