きっと何にもなれない
溝口 あお
第1話
死は夢物語だと、きっとどこかで思っている。
自分も、周りにいる人間も、当たり前のように明日も生きていると皆信じて疑わない。絶対的に存在する死はいつだって頭の中の想像上のものでしかなく、知った気になっているだけに過ぎない。
知った気になっているようでどんなものかも分からないから、軽々しく死ねという言葉が使える。こんな風に机に花を飾ってお葬式ごっこができる。小さな子供のおままごとと変わらない。
それで本当にその人が死んだ時、どんな顔をするんだろう。まさか死ぬとは思わなかった、なんて言って大人達に向かって可愛らしくめそめそ泣き、深く反省し贖罪するふりをしてみせるのだろうか。
遠巻きにくすくす笑っているあいつらはきっと、わたしが死んでみせてもすぐ忘れて、真っ当な人間の皮を被って進学して就職して、結婚して幸せになろうとするんだと思う。
花瓶は分厚いガラス製で、持ち上げると少し重かった。でもそんなことはもうどうでも良かった。
真っ直ぐ花瓶を持って目の前に来たわたしを、軽蔑と驚きの混ざった醜い表情で見上げている。その頭上から花ごと水を浴びせかけた。
わたしは持っていた花瓶を床に叩きつけて割り、しゃがんで大きな破片を選び拾い上げた。わたしは酷く静かな気持ちでそれを右手に握る。薄く尖った切っ先が、掌に食い込んで血が滲む。痛みは全く感じない。周りに集まっていた取り巻き達は血を見てきゃあ、ともひい、ともつかない引き攣った悲鳴を上げている。
水浸しになってぺたりと前髪がくっついたその顔目掛けて、わたしはガラスを突き立てた。
やめて、と言ったかもしれないし何するの、とも言ったかもしれないその声は、正しく何を言ったのかがはっきりわたしの耳には入らなかった。言葉をなさない甲高い悲鳴は、ひたすらに汚い音だった。
じたばたと手足を暴れさせるから、ガラスで書く文字は酷く歪になってしまう。額の真ん中に書いた「ブ」は脇腹に膝が当たったせいで二つ目の点々が少し離れた眉の端っこで異様に伸びた線みたいになったし、右頬に書いた「ス」も、顔を庇おうとする腕のせいで二つの払い線が死にかけのミミズみたいにひょろひょろのたくったようになった。
死ねとか消えろとかの言葉より、まだこの二文字の方が可愛げがある。もっと酷い言葉を書こうとも思ったけれど、いざとなるとそれしか思いつかなかった。
思う様深々と、見方によっては独特な味のある文字を書けた顔面書道を終えて、わたしはその出来栄えを改めて見たかったのに。醜い作品は足元に崩折れ、顔もくしゃくしゃに覆ってしまった。
心の傷は目に見えない。わたしの傷も目に見えない。
だから誰にも、理解されない。
だったら外に見える形で、残せばいい。
作品は、誰かの目に入って初めて価値を得る。
だからわたしはこの作品に対して思う。
どうか、この先も安心して生きてね。その傷と共に。ずっと一緒にあって欲しくて頑張って深く刻んだのだから、傷がふさがったってそう簡単には消えない。これを見た周りの人間は、どんな評価をくれるのかな。その傷とどんな人生を送るのかな。どうか生きて、それをわたしに教えてね。
わたしもそれまで、頑張って生きるから。
飛び込んで来た教師たちに取り押さえられ、わたしは力が抜けたように床に座り込んだ。花瓶に活けられていた、白かったはずの赤い花がその多数の足に踏みつけられ、広がる赤の中でただのゴミと化した。
わたしは初めて、悲しいと思った。
折角生まれて何かになれても、誰かに踏みつけにされればもう死ぬしかないのだ。どれだけひたむきに、誠実に、真面目に、慎ましく生きていても、向けられた悪意に土足で踏みにじられる。
ああ、だから、わたしは、こうするしかなかった。
もうどうでもいい、と。風船を手放して空に飛ばすのと同じくらい簡単に、わたしは心に縛り付けた何かをその瞬間手放した。
目の前が暗転した。感覚が膜を張ったように遠のいた。悲しみも痛みも、何もかもが空へ飛んでいく。
わたしにあるのは、この手で作り上げた醜く汚い作品だけ。作品が評価され、広められ、世に知れ渡るものとして完結するまで、わたしは見届けなければ。それだけを楽しみに生きるのだ。
そんなわたしは、きっと何にもなれない。
きっと何にもなれない 溝口 あお @aomizoguchi
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