第9話 チンゲンサイ
総菜屋さんの跡取り娘だった芳子さんは料理がうまかった。工夫を凝らして面倒な仕込みの料理をつくってくれた。家に帰り着くと、青梗菜(ちんげんさい)!青梗菜(ちんげんさい)! そうだ、料理の残りが小分けして冷蔵庫にあったはずだ。
業務用惣菜を入れていた自宅の大きな冷蔵庫の戸を開ける。
門司港の『将棋』の名がついた店でうまい料理を見つけた。
動脈硬化が進んだ昭男さんには塩気が少なくてもおいしい野菜料理が必要だった。
昭男さんの言うチンゲンサイとは、本当はホイコウロウという料理で、青梗菜⦅ちんげんさい⦆とは別物である。
芳子さんの作ってくれるチンゲンサイは中華の凝った味で飽きを感じさせない。
料理がうまい次女の良恵さんが受け継いで、似た味を作って冷蔵庫に保存してくれているが、芳子さんの味と比べると今ひとつちがう。が、これもおいしい。
ホイコーロとか言うのが本当の名だが、彼は名前を正確に覚えることができない。
青梗菜⦅ちんげんさい⦆が入っていないのに、チンゲンサイと名をつけてそう呼ぶ。
(ホイコーロー【回鍋肉】中国語)
中国の四川料理のひとつ、豚バラ肉とキャベツ、長ネギなどを炒(いた)め合わせ、
唐辛子味噌と甘味噌とで味を付けたもの。
前田のおばさんは、昭男さんが定年退職後、夜勤に出ていた頃、昭男さん夫婦の
家に顔を出して芳子さんとおしゃべりした。ホイコーロがたくさん出来あがると、
家にもらって帰った。おばさんのご主人が好きでよく食べると言った。
おばさんのご主人は定年退職した後、ハロ―ワークの紹介で職を得て半年働いたが、また失職した。
『年金がもらえるまで期間があるのに、家でごろごろしておられると気が狂いそうになる』とはおばさんの口癖。もちろん本心ではないが……ご主人がかわいそうだ。
芳子さんがいなくなると、前田のおばさんも他のおばさんも来なくなった。
良恵さんや子供の友達は来るが、のぞいて声をかけてくれる馴染みの人たちが
来なくなった。
昭男さんは最近、言葉がでてこない。しゃべらなくなったからだ。
しゃべる相手がいなくなったこともあるが、しゃべろうと思うと入れ歯がつかえたように疲れるのだ。気がつかないうちに、また隠れ脳梗塞が起こっているのかもしれない。
血圧が問題だが運動不足でもある。天井からのぶら下がりも、やめて久しい。
これだと歩かなくなるとどうなるのだろう。毎日、歩くチャンスを探している。
奥さんが死んで一日中、波止場を歩きまわる年寄りの記事が新聞に載っていた。
同じ気持ちで読んだ。
奥さんの存在の大きさは自己中心的な男にはなかなかわからない。
久しぶりに、紫川の河畔伝いに海の方へ歩いてみようか。この間のように、だれかにまとわりつかれてもよい。いや、やめとこう……、探しまわる人の数がふえる。
チンゲンサイ⦅本当は、ホイコーロ⦆の汁を電子レンジで熱してご飯の上に
かけた。汁の残りを覚まして小分けして、またすぐ凍るように耐熱容器に入れて冷蔵庫の奥に置いた。総菜屋時代のデカイ冷蔵庫がまだ家にある。
コンロは火災事故につながるからダメだが、電子レンジは使ってよいと、良恵さんの
お許しがある。
チンゲンサイの、汁かけご飯をたべながら、太って動きが鈍くなった三本足の赤猫と話す時、昭男さんはうれしくなる。
芳子さんの視線がどこかその辺にあるように感じるからだ。
「ほらほら、後片付けがまずい」、せわしく口を出す声がもう聞こえてくる。
チンゲンサイを食べながら芳子さんの思い出に浸る。
猫が近寄ってくると会える気がしてうれしくなる。
チンゲンサイは臭うので猫は食べない。チクワをちぎって与える。
布団に猫が乗ってゴロゴロいう音をたてはじめた。
血圧の薬は今日までにしようか、明日からは服用をやめようか──法事の翌日から思った。医者が知ったら、次女の良恵さんが知ったらただでは済むまいが……。
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