第8話 通所介護
翌日また、富永スーパーの前から出るデイサービスのバスに乗った。
近くの介護施設から、歩けて手がかからない、すごし方がわからない
昭男さんのような年寄りたちに迎いが来てくれる。
『ご案内』 月曜日~日曜日の午前九時三十分~午後三時まで(祝祭日も利用
できます) ■料金 利用料の一割+食事代+日用品費
(注)介護認定により、要介護度、入浴の利用について金額が異なりますので
お尋ね下さい── とある。
誰も反対しない。年寄りが行ってくれればみんなそれでいいと言う。
通常の行動があまり変わらなくても、昭男さんをひとりで家においておくのは
心配な存在だ。何か思いつくとどう動き出すものか、傍目に見ても心配になる
対象らしい。
次女の良恵さんは保育園勤めをやめるわけにいかない。昭男さんが毎日、
通所介護サービスに出かけていてくれれば、姿が見えなくとも、帰ってくる時間まで彼を捜し歩かないですむ。義兄の吉村さんは、法事の後も松原家に顔をだして
くれるが、父親の面倒をみる良恵さんの苦労はかわらない。
グループホームの広い施設の一廓(かく)で春のこの時期、関連大学から
来た医者が介護スタッフたちに講義をしている。昭男さんは若い頃、医薬品のプロパー⦅学術宣伝員⦆をした経験がある。精神科や心療内科を定期に訪問して医療従事者たちと仕事上の話をした。今はまったく有用な知識はないが、その頃と同じ雰囲気を感じると、白衣の人の言葉がところどころわかる気がするのは不思議だ。
医者は昭男さんが覗くガラス張りの部屋でこんな話をしていた。
(医者の話)
━脳血管性障害による認知症は血管の老化が原因で血管が動脈硬化を起こやすくなり、脳梗塞や脳出血、くも膜下出血などの病気を起こす。血液によって酸素や栄養が届かなくなった脳細胞が壊死する。脳梗塞がいくつも起こる多発性脳梗塞では、脳梗塞の数が多ければ多いほど認知症になる危険性が高くなる。
ある能力は低下して、ある能力はしっかりしているという「まだらボケ」がみられる。人によっては病気だという認識をもつために悲観的になる。脳血管障害による認知症は、脳梗塞や脳出血、くも膜下出血などの発作があったときからはじまり発作が起こるたびに進行するので、次の発作を防ぐことが大切になる─。
漏れ聞こえる話し言葉の断片に懐かしさを覚え、自分が現役に返っているように同調する。手のひらに脳梗塞となぞると、なぜか難しい字が書ける。
昭男さんに軽い脳梗塞の症状が出て救急施設に一時入院したが、介護とリハビリ部門があるこの施設に言語能力回復のために一ヶ月間通ったことがある。
芳子さんが言葉の練習に付き添ってくれた。
「ララ、ララ、ララ、竹たてかけた、竹たてかけた、レロ、レロ、レロ、東京特許許可局、キャ、キュ、キョ、魔術師今手術中、」
昭男さんは現実に戻った。回りに静かな年寄りが多い。仕切りの外にかがんで
講義を聴いていると、ホームの職員が追いかけてきた。
「昭男さんどこいくの」追いすがられる。ギンギンギラギラ、夕陽(ゆうひ)が
沈むを唄っているグループに逃げ込むか、黙してTVを見ているグループの中に
もぐりこむともう追いかけてこない。
眼が届くところにいないと、入所者がひとりで動いたり走ったりして転ぶと責任を問われる。怪我をされたら施設の責任になるから評判に傷がつく。短時間入所であっても、寄り固まっていないと自由な時間をもらえないのだ。
制服の事務員は好きになれないが、白衣のひとは男でもやさしい。
芳子さんのことを考えようとして忘れてしまう。次に思い出すまでが長くなる。
記憶のよみがえりは心が乱れてとても疲れる。記憶がない方がしあわせかもしれない。いいことばかり覚えておければよいのだが……以前は次から次へと思い出せた。
忘れた振りをしていると思ってくれてていい。芳子さんは家にいると帰る途中、
いつも思ってしまう。義兄は死んだ奥さんが忘れられずに悲しむが、昭男さんのように探し回るだけで、見つからなければ、悲しみは来ない。
忘れられると楽になるのだ。
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