第7話 前田のおばさん
多弁な前田のおばさんが遅れてやってきた。キチンと両手をついてあいさつした。久しぶりに顔を見せたおばさんは、
『昭男さんもう忘れたの、この間はおぼえていてくれたじゃない──ネコのようにまとわりつかないと,わすれるのね』
芳子さんのおしゃべり友達で仲がよかった。
昭男さんが高血圧を経た動脈硬化で先々、腎不全を経て腎透析をしなければならない運命であることもおばさんに知られていた。しかし、ふれまわってはいない。──芳子さんが漏らしたがしっかり口止めしたのだ。
五年、十年先に彼が腎不全になり、腎透析の必要が出てくるかもしれないと
医者が示唆した。上がり続けるクレアチニンの値が病気の指標で、予後がよくないと言った。昭男さんは医者の言葉に落胆し、加齢とともに良くならないことを知ると
やけを起こした。進行を抑える方法は、現代医学でも明確なものがまだ公表されていない。
定年退職して、これからの人生を考えていたのに、腎不全や腎透析で四、五年先に療養生活から免れなくなると思いたくなかった。
そんな彼に芳子さんは言った。
『七十才まで生きようと思えば……いいんじゃない。一緒に生きて、私が遅れて死んであげる。三回忌にお経をあげる人がいないと方向音痴が迷って困ろうもん』と。
世の中にはすぐ死んでしまう人の方が多いのに……自分は甘えていた。
自分がいつまでも子供のように、駄々をこねているように思われた。
癌や交通事故で苦しんで、急いで死ぬのではない。毎日、寿命を確かめて、
味わいながら生きてゆけるのだ──芳子さんに言われて落ちついた。
その芳子さんが先に逝(い)くなんて、考えもしなかった。
法事をして、お坊さんと一緒にお経をあげてくれるのは芳子さんだと思っていた。冥土でさまよう自分のために、彼女が三回忌までの法事をしてくれるものと
思っていた──信心深い芳子さんが自分の死期が近づくまでそう言いつづけたからだ。昭男さんはそれを当たり前の約束として信じていた。そしてそれがいつの間にか……どっちが死んでも三回忌には生き残った方が法事をしてあげましょう、
ということになった。
芳子さんが先に逝くなんて思いもしなかった。
三回忌までは……それが、信心深い芳子さんに対する昭男さんの約束になった。
あれほど、あと十年、せめて五年、生きたいと思っていたのに、芳子さんが
死んでしまうと生きたい火がすぐ消えた。
生きていてもうれしくない。生きていようなんて考えない──この心の変化は
考えもしなかった。
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