第5話 お 経

 客は多くなった。知った客はまだ来るのだろうか。

昭男さんは尻の下に敷いた小型の座椅子が痛くてたまらない。

高さが不足している…膝が曲がらない。前にも同じ経験をした。

この部屋で、前にも同じ痛みの感覚を味わった気がする。

 

 昭男さんは少し考えられるようになっていた。

写真を飾りつけながら話す女のひとたちの声が入ってくる。

 皆、かしましい。女系親族の代表者ばかりだ。

『写真ができたのね。やっぱり色がついている方がお母さん…キレイ!』

『指が見えたので上の方をのばしてもらったけど、この方がいい…』

『料理で右に出る人はいなかった──わたしも味を覚えたけど、』

 良恵さんの声も加わった。

  

 芳子さんは保育園で調理の仕事をしていた。

毎日、重い鍋や大きな容器を持ち上げていた指は痛々しくゆがんでいた。

惣菜の調理経験があった彼女は、昭男さんが定年退職した数年後に働きに出た。

小額の老齢年金(三号配偶者)を六十五歳でもらえるまで四年間働いた。

 その頃、昭男さんは脳梗塞をして小倉の総合病院に入院していた。

退院後、日をおかずに、近在するリハビリ施設に通って言葉を取り戻す訓練をした。芳子さんが付き添って相手をしてくれた。よく覚えていない。

その時に繰り返した早口言葉だけが、今も出てくる。


『この置物はお母さんが大事にしていたのにね…』

 吉村家の長女が茶色の布で埃(ほこり)をはらった。

昭男さんは馬の置物をこんなに近くで見たことがない。飾り棚の一番手前にあって、人工的だが馬の皮の強さと光沢を持った置物だ。

午年⦅うまどし⦆の昭男さんが両手に持って、ヒヒンとおどけて鳴いた。

黒褐色のかたちが気に入っていた、スマートな馬のぬいぐるみだ。


 もうすぐ、昼の一時……法事が始まる。

昭男さんは、芳子さんや両親の姿が見えないことが不安に思われた。

人の顔が浮いて見え、気分がそわそわし始める。

知ったひとたちがみんな揃ったのに、両親や芳子さんの姿が見えないのはどうした

ことだろうかと考えてしまう。


 坊さんを待つまでのひととき、義兄が昭男さんの左側のたたみに移動して

座った。仏壇から写真の額を降ろしてくるとみせてくれた──カラーになった女の人の上半身。昭男さんがけげんな顔をすると、

『このひとはあんたの連れ合いの芳子さんではないかのう……』 と言った。

 昭男さんは額に入った女の人の写真をみた。

ぼんやり咲き乱れた花壇を背景に、白い服の女の人が笑っている。

『このひとが芳子さん』……この人に覚えがある。

(このひとにさっき会った)耳当て帽子のこの人に表で会ったのだ。

 

 彼は表に飛び出した。義兄が急いで追いかけた。

『迎えにきてたんだよ、お母さんが゚、保育園で働いていたときの格好してさ…』

 娘たちが言う。『来てたんだ、お父さんが家に帰れるかどうか、心配して、

 見てたんだ』。

 

 写真を見ながらみんな黙った。

『俺には何も見えなかった』

 昭男さんを連れて戻ってきた義兄が不満そうに言った。

 

 お経が始まった。

 お経はとても長く以前とちがう韻律に聞こえた。

『ナムライシヘンジョウ...』と聞こえた。

 耳に慣れた、南無阿弥陀仏(なむあだぶつ)とは言わなかった。


・(真言宗)は 弘法大師、空海が開いた宗派の真言密教。護摩(ごま)壇で護摩(ごま)木を焚くことで知られ、『即身成仏」を教えの根本とする。密教の修行をすれば誰でも仏になることができるという教えである。空海は嵯峨天皇に重用されて高野山に金剛峰寺を建立して真言宗を開いた。真言宗は多くの派が生まれたが、本尊は大日如来、主な経典は大日経、金剛頂経で、南無大師遍照金剛⦅なむだいしへんじょうこんごう⦆と唱える。


『家族みんな、あんたの実家の宗派に入れてもらうようにしたんじゃないか』

 足をさする彼に義兄が小声で知らせる。

『両親が元気な頃からだよ昭男さん。

 松原の両親も芳子さんも、そうしたいと希望したことだったんだ』


 吉村さんが言った。

『さあ、みんなでお線香を上げよう。そのうちにまた芳子さんに会えるだろう』

 毎朝仏壇に膳を供えていた、信心深かった彼女の姿を思い出して昭男さんは嬉しく

なった。『ナムライシヘンジョウコンゴウ』と唱える。坊さんが帰った。


 尻の下に敷いて膝を楽にする座椅子がとても痛かった。

この感じが前にもあったように思う。学生時代にスポーツで傷つけた関節が法事のたびに痛むので、芳子さんが座椅子を取り寄せてくれた。

 あれは、おばあちゃんの葬儀の時からだ──わかってきた、そう思いたくなかったのだ……芳子さんの両親はふたりとも亡くなって、もうこの世にいないのだ。

 

 三本足の猫がぴょんぴょん跳んできて、座布団に寝そべる。

裏通りの坂道で車にひかれた猫を芳子さんが動物病院に運んで手術してもらった。

三本足でも生きていければよいと言った。野良猫の本性が残っていて、フーっと

爪を立てる。昭男さんになかなか、なつかなかったネコだ。

 

 涙が出てきた……いっぱい出てきた。そして──わかった。

『今日は芳子さんの、ぼくの芳子さんの三回忌だったのだ……!』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る