第4話  法 事

医者はかんたんに脈を取って今し方、帰った。

昭男さんは座ったまま周囲を見渡した。

今日は自分のほかにもひとが来るらしい。隣の部屋にも客が来ている。

 

姻戚筋らしい女の客が、『お父さん、あなたがついててどうしたのよ』と、

横に座った先ほどの年寄りに言った。

『写真をもらいに行くというから、行かせたさ。近くで見ているから……心配ないと思った。けど、オレを知らない人間だと思って警戒しだした。だから、

帰り着くまで遠くから,そっと眼は放さんだった』と、何度も言う。


 男は吉村さんという、昭男さんと二歳違う義兄である。

芳子さんの姉の敏子さんの夫で、恰幅(かっぷく)のいいヒゲの税理士さんとして、

商店街に風体が浸透している。

本人が老妻と呼んでいた姉の敏子さんも二年前、芳子さんと同じ頃に亡くなって

いた。

『芳子さんの写真ができましたから取りに来てください』

写真屋さんからの電話を目の前で聞いて、彼が家を飛び出したのだという。

吉村さんと話しているのは嫁に行った吉村家の長女で、夫の塩月さんや子供たちも

来ている。義兄の吉村家も昭男さんの小宮家も女系家族と言おうか、法事があると,連れ合いと一緒に来る女性の縁者が多い。

それに所帯がふえた分だけ子供たちも加わり大勢の家族があつまった。


『お母さんに会えるかもと、思ったのかねえ』

 嫁ぎ先から理容師の夫と一緒に来た小宮家の長女が言った。

 

 今日は……法事なのだ。 昭男さんにも、何となくわかってきた。

みんなの顔が白く浮かんで見える。知らない人ばかりのようで不安に感じる。

『写真屋まで行くのかと思ったら駅前で買い物をしたんだ。

支払いはオレがしたよ。ほれ!』

 吉村さんが手に持った紙片をみせる。『その次が公園だったんだ』と義兄が続けた。『それからもう、ぶらぶら歩き出した。まあいい、知ったひとばかりのところだから、何も心配することはなかったけどさ』

 

 三回忌の法事に来てくれた吉村さんは、義弟の行動の変化にとても同情的な見方をする。義弟の精神状態が乱れるのを知ってからは、つとめて、その分野の医学的書籍を読むようにしている。

 永く連れ添った姉妹の伴侶をほぼ同じ頃になくしてしまった。形式的な姻戚であったふたりの関係が共通の似通った境遇になった。これからは、望んでも望まなくても、違う次世代の娘たちに、残された自分たちの人生の指針と面倒を預ける覚悟を迫られる。


 税理事務所には所員が何人もいて、吉村さん自身は日常、細かなことをやらずにすむ。かなり時間があるのだ。自宅から離れたところに事務所ビルを持っており、

三階の自分の部屋に上がると、もっぱら管轄外の本を読む。

最近は、加齢による病気や姻戚関連の遺伝に触れた本を読み始めた。

高齢者の認知症にもくわしくなった。高齢者にはうつの症状が多いことも知った。


(高齢者のうつ病) ──認知症と紛らわしい病気に高齢者のうつ病があり、

定年退職や家族の死などをきっかけに発症することが少なくない。本人がもの忘れを訴えることもあるが認知症の記憶障害とは違うらしい。

 うつ病がそのまま認知症になることはないが、家に閉じこもり刺激の少ない生活を続けていると認知症になる可能性が高くなる。認知症とうつ病が併発している場合があり、医師に相談して適切な治療を行うことが大切、と本に書いてある。

  

 義兄は、難しい医学書を読んだあとの偏⦅かたよ⦆った知識でまた娘婿と話しはじめる。口さがない伴侶がいなくなって久しい。どっちもどっちだ。

 

 昭男さんは周囲を無視──消えてしまった思いから、まだぬけきれない。

夢から覚めたばかりで、もどりそうになる。

 座って考えていた──長崎に行ったときのことを……芳子さんの夢を見ていた。

花がきれいな季節だった。諫早(いさはや)の眼鏡橋を渡って、ツツジでいっぱいの

公園をふたりで歩きまわった。長崎の町に色のついた電車が走っていた。

 尖った屋根の教会を訪ねると、長い階段の途中で背の高い赤鼻の神父さんと出会った。一緒に写真を撮った。晴れた空に手を上げて今、平和の像に近づいていた。

心がふらつき、人の顔が浮いて見えてくる。

逆光線を浴びた姿を見るように輪郭⦅りんかく⦆が外郭に現れ、それから変化した──耳はよく聞き取れた。 

 

 ソージ機のうなる音……ベルを押すと、女の人が出てきた。

 この家だ。

『芳子さんのお父さんはいらっしゃいますか』などと言ったつもりだった。


『また、発作が起きた!』

自分の娘にそう言われた。

 昭男さんの娘(次女)は二十歳前に結婚して家を出たが,浮気ものの夫が交通事故を起こして失職したのをきっかけに、将来を憂い、子供を連れて戻ってきた。

 昭男さん両親の所帯に戻り、母親の芳子さんが死んだ後も保育園の保母さんとして働きながら父親⦅昭男さん⦆の世話をしてくれている。

 次女は良恵さんという。さっき、昭男さんを『じぃ!』と呼んだのは、彼女が

つれ帰ってきた子どもで、彼の孫にあたる小学四年生の女の子だ。


『そろそろ、部屋に入ったほうがいいわ。お母さんが仏間に来てると思うから……』 良恵さんが言った。

 写真が入った風呂敷を取り上げられて、仏壇の前に入口を向いて座らせられた。

日のあたる側に敷いた座布団に褐色の猫がふてねをしていた。昭男さんたちが入ってもうろたえず、ゆっくり出て行った。

 

 三本足のアカネコだった。

『まあ、お前も,そこがよかったんかね』

 吉村家の次女が言った。

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