雪が溶けただけの涙
私が会社に戻った頃、空はすっかり真っ暗だった。おまけに雪まで降っている。細かくおろしたチーズみたいな雪。寒くて暗い。憂鬱だ。外が暗いとそれだけで一日を強制終了されるような気分になる。通勤と食事と仕事。まだそれしかしていないのに。またそれしかないだけだけれど。磨りガラスのドアを押して、さっき出たばかりのオフィスに入る。あ、と声が漏れた。中でひとり、まだ残業している人がいた。その人が私に気づいて視線を上げる。
「あれ、どうしたの」
話しかけられたのに返事が出来ない。私は唖然としてそれを見つめていた。
黙ったまま一歩も動かない私に訝る彼の、その顎先から雫がひとつぶ落ちる。忘れものでもしたの?と続けた至極全うな質問がとてもちぐはぐに聞こえた。雫が落ちる。キーボードが、書類が、ぬれる。受け止めなくちゃ。でもダメだ。全然間に合わない。
「なんで」
「ん?」
「…なんで、泣いてるんですか」
彼の言った通りだ。忘れものをした。鍵を忘れたから取りに戻った。でもそんなことより。涙が止めどなく流れていく。まるで洪水みたいに。ああほらまた。また落ちる。
「泣いてる?ぼくが?あ、そっか。ごめんごめん」
彼は頬を触ると、何か思い当たったように謝った。電話の折り返しを忘れていたことを謝るような、まるで日常にありふれたことだと言うような声が、またちぐはぐで不気味だった。
「なにかあったんですか」
「いやあ、違うんだ」
彼はいつもの、穏やかなのに飄々とした顔で笑った。ねえちょっとそこのタオルとってくれる。私は言われるままキャビネットにあるブルーのスポーツタオルを取った。彼へ手渡すと、手際よくワイシャツの襟にぐいぐいねじ込む。
「悪いね、驚かせちゃった」
「いいえ」
「たまにこうして涙が出て、しばらく止まらなくなるんだ。痛みがあるわけでも悲しいわけでもないから心配しないで」
心配しないでと言ってる間にも涙はぼたぼた落ちていく。外は真っ暗だった。とにかく、真っ暗だった。白い雪もぜんぶ吸い込まれていく。
「意味わかんないんですけど」
「病気みたいなものさ」
「…びょうき」
「ほら、鼻血とおなじ。朝目覚めた時にふらっと出ることがあるでしょ?つーって勝手に落ちて、もう自分じゃ止められない」
「血じゃないじゃないですか」
「血だったら怖いでしょ」
「そりゃ怖いですよ」
「そういうこと」
「意味わかりませんってば」
普段から掴みどころのないひとだった。5つ年上の先輩で、いつも穏やかで、だけど飄々としてて、協調性があるんだかないんだか優しいんだか冷たいんだかよくわからない。どれも当てはまるような気も、全く違うような気もする。
「病気より厄介かもね。こっちは名前も原因も解決法もない。でもまあ別に生活に支障はないからなぁ」
「あの、それってよくある事なんですか?」
「どうかな。思い出した時にやってくる。だいたいは家でリラックスしてるときなんだけど、残業中とか、前に出社直後になったときもあるよ」
「じゃあ知ってる人もいるんですか?」
「もちろん。このタオルは社長がくれたものだ」
信じられない。そう思った。だって、どうしてみんなこの人をそのままにしてるの。こんなの普通じゃない。
「子供のころから?」
「いや」
彼はそこで言葉を止め、座ったまま椅子を半回転した。雪はもうない。ただ真っ暗なだけの窓の外を眺める。穴の中みたいだ。井戸を覗いてるみたい。ぼたぼたと雫が落ちていく。
「5年くらい前からだね」
「なにかきっかけがあったんじゃないですか」
ぐるんと椅子を回して、彼は私を見据えた。微笑んだ瞳から無機質な涙が流れていく。とてもちぐはぐで、滑稽で、気味が悪い光景。
「なにかって?」
「だから、そういう症状が現れる原因になった何か」
「精神的なショックってこと?」
「そう…そうですよ」
「恋人が死んだことくらいかな」
私は空気を飲み込んだ。構わず彼はさらさら話し続ける。
「事故でね。人って本当にいきなりいなくなるよ。嘘みたいなのに残酷なほど現実なんだよね。病院でも葬式でも泣かなかったんだけど、でも、確かそれからちょうど一年たった頃だな。何でもないのに突然涙が流れるようになった。彼女の事を考えてるわけじゃない。テレビ見たり、本読んだり、そういう普通の時だ。彼女を思う時に涙なんかひとつも出ない」
不思議でしょう。彼は笑った。泣いてない私のほうがずっと息苦しかった。奇跡とか、運命とか、そういう陳腐で恍惚な甘い水に飲まれそうになる。
「それはきっと…その人が忘れられないからでしょう」
「そうかな」
「何でもないって思ってても、潜在的な悲しみが涙を作ってるんですよ。自分で止められないくらい」
「そんないいものじゃないと思うけど」
いいえ。違います、違います。頭を横に振りながら私はコートを脱いだ。セーターを脱いだ。ブラウスのボタンを外し、タンクトップをずらす。胸元がすーすーして寒い。三日月みたいなかたちの傷痕が現れた。息が。いきがくるしい。
「彼女は亡くなっていません。ここにいます」
彼の恋人の心臓は、私の身体にとてもぴったりはまった。不慮の事故に遭った、ある女性の命。6年前、病気だった私に与えられた心臓。パズルのようにぴったりはまった。まるで同じ人間だったみたい。ほんの偶然知ってしまったその人と、その人の恋人。ぴったりだったの。だからきっとわたしも彼女みたいになれる。あなたの涙の理由になれる。わたしなら、わたしだけ。ずっとひみつだった月の傷あとがふるえた。
「痛そうだね」
「心臓」
「うん」
「もらったの」
「上手くいって良かった」
「ここにいます。いまもここに」
あはは。
そのとき、たしかに笑い声が響いた。あはは。本当に可笑しいみたいに。馬鹿な冗談を一蹴するように。
「それはきみの心臓だよ」
光が届かないほど深い、深い井戸の底にある水が、彼の頬を伝う。顎を落ちて、タオルに吸い込まれる。
あはは。
笑い声が響く。ひびく。吐きそう。わたしは深い深い井戸の底に突き落とされた。
「そんなのあの子じゃない」
うぬぼれだ。
うぬぼれだった。知っていた。
でも、それでもいいから。おこぼれでいいから。美談でいいから。奇跡でいいから。
胸が苦しい。彼は少しも苦しくないのに、わたしだけ苦しい。わたしが苦しいなら、彼の恋人も苦しいはず。私たちはあの日、ひとりになったんだから。そうやって独りよがりの幻想にひたひたに酔っていたかった。
「ぼくはね、彼女の心臓がほしかったんじゃないよ。目がほしかったわけでも、声がほしかったわけでも、手や足がほしかったわけでもない」
彼は涙を落とす。平然と泣く。眉を歪ませることも、目を赤くすることも、嗚咽を漏らすこともなく、普通の顔で、笑みさえも浮かべて。まるで排泄でもしてるみたいに。もういらないものを流すだけの現象。もういらない、感情の混じっていない空っぽの涙。大事なときに流せなかった、幽霊みたいな涙。
なのに、きらきら光ってた。
見たこともないくらいにきれいで、輝いて、見たくないのに目は離せず
わたしだけずっと苦しいまま、わたしだけいつまでも涙が流せない。
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