あくびするやかん

古いガスストーブの上には、古いやかんが乗っていた。


注ぎ口からは細い湯気がふうふう吐き出していた。


某年の正月。例によって親戚が集まる祖母の家は古くて寒くて退屈だ。父たちは酒を呑みながら楽しそうに笑っていて、母たちはせわしなく台所と居間をいったり来たりして、従兄弟たちはトランプで大富豪をしている。

やかんの口から細い湯気が出ている。眠たいわたしはひとり洋間の椅子に座って、ぼんやりそれを見つめていた。ふうふう、ひゅうひゅう、ふうふう、ふうふう。ずっとそうしていると、喉と頭の後ろの辺りから込み上げてくるものがあった。むずむずと唇を歪めたあとで、ぱかっと口を開ける。すると大きな息の塊が出ていく。自然とつむっていた目を開けると涙に視界がぼやけていた。眠いのだ。眠いからあくびが出た。当たり前のことだ。わたしは姿勢を崩し、テーブルに耳とほっぺたをくっつけて引き続きやかんを見つめた。様子を見に来たのか母がひょっこり顔を出す。


「ちょっと、寝ないでよ。もうすぐご飯なんだから」

「寝てないよ」


まったくもう、とぶつぶつ言いながら忙しい母は台所へ戻って行った。そうしてまたすぐにむずむずとした感覚が生まれる。種だ。あくびの種。また大きく口を開けるのも面倒なのでざくざく噛み砕きながら細かくあくびを出した。


「ていうか、あくびってなんなんだろう」


眠い時に出る息。あくび。息が身体の外へ出ようと口をこじ開ける。地響きが身体の中で起きるみたいにぴきぴきと音が聞こえるときもある。涙だってどうして一緒に出るんだろう。だけど赤ちゃんだって猫だってあくびをするんだから、生き物にとって大切なものなのだろうか。


「寿命だよ」


正面からかさついた声が答えた。耳は机にくっつけたままでずるずる頭を傾ける。禿げた頭があった。向かいに座った祖父が同じように耳を机にくっつけて、頭を横に倒した状態でやかんを見ていた。わたしもやかんに視線を戻す。ふうふう湯気が出ている。


「寿命って?」

「残りの命」

「それはわかってるよ」

「あくびをするってことは命が出ていくってことだろう」

「なにそれ迷信?言い伝え的な?」

「はは、学校で習ったろう?常識じゃないか。忘れたのかい」

「知らないってば。じいじの子供のころの話でしょ」

「まさか。じいちゃんの子供のころはまだ解明されてなかったさ。いいかい。寝るってことはつまり意識を失うってことだ。それがどれだけ危険なことかわかるだろう。寝ている間に自分の身に何が起きても防ぎようがない。だから人間の身体は徐々に睡眠に抵抗するようになった」

「抵抗?」

「眠気がピークに達した時に発生するエネルギーの塊を出すことで意識を明瞭に保つことが出来るようになっていった。もともと睡眠ってのは1日の半分くらいを占めていたらしいが、進化して眠気を殺せるようになってからは大分短くなったんだよ」

「1日の半分もずっと寝てたの?」

「人生の半分眠ってるって事だ。睡眠が短くなってそのぶん余計な事を考えるようになっちまったけどな。馬鹿な事なんかしていないで、みんなもっと眠っていればいいんだよ」

「睡眠に抵抗するってどうやって?」

「そりゃあ、もちろんあくびだよ」


白くて細い湯気が忙しなく踊っている。わたしは長いまばたきをした。あ、そっか。あくびの話をしていたんだもんね。


「あくびは眠りを殺してるの?」

「そうさ、当たり前だろう」

「当たり前なの」

「常識だよ」

「ふうん」

「だけどやっぱり睡眠は生きる上でとても大切で、それを殺すってことはつまり生命に逆らうってことだ。あくびは不自然で無理矢理なエネルギーなんだよ」

「そうなんだ」

「だからあくびをするたびに寿命が出ていくのさ。職人が削ったかんな屑みたいにうすーくだけどね」

「それは嫌だねえ」

「しょうがないさ。生き物の進化なんだから」


ぴきぴきぴき。あくびの種が上がってくる。耳から頭の中の空気がぼわんと膨張する。命がちょっとだけ出ていく。涙が流れた。


「ほら」


白いリボンの湯気がゆらゆらふうふう踊ってる。


「あの湯気だって、このまま出続けたらやかんの中は空っぽになるんだから」


それとこれとは違うと思うけど。わたしはまばたきをした。長い長いまばたき。


「ねえ、じいじ」

「ん?」

「じゃあさあ、あくびがさあ、出そうになったらさあ、抵抗しないで寝ちゃったほうがいいよねえ。身体に悪いもんねえ」


まぶたが涙で完全にふさがれてしまった。もう開けられない。進化して1日の睡眠時間が短くなったんなら、これからどんどん進化していつか睡眠がなくなる日がくるのかな。だけどそのぶんあくびをいっぱいするわけだから、寿命も短くなってすぐ死んじゃうんじゃないのかな。そうやって人間は絶滅するのかな。


「眠い時に寝ないとねぇ…」


ああ眠たい。まじめに考えたってしょうがない。祖父は嘘も真実もどちらも普通の顔と声で話すので、言ってることの半分はデタラメだ。今はどうだろう。なんかもうどっちでもよくなってきた。


とうとう眠りに落ちようかというところで、ぱたぱたとスリッパの音がした。やばい。お母さんだ。


「ちょっと!寝ないでって言ったじゃない。もうみんな集まるんだから早くしなさい」


じろり睨みながら母が言う。


「そう言えばあんたおじいちゃんにお正月のあいさつしたの?こっち来てからそこでずっとやかんばーっかり見てるけど」


これ以上母の怒りを買わないようにわたしは素早く起き上がる。下敷きになった方の髪の毛がぴょこんと跳ねた。


「当たり前だよ。いちばんに行ったもん」


わたしと母の声が聞こえていたのだろう。年下の従兄弟たちが慌てて祖父ところへ行くのが見えた。しばらくして響いたりんの音がやかんの湯気を揺らす。某年の正月だった。

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