どっかの誰かがなんか言ってる

つぐみ

1センチの超能力

彼女がその能力に気づいたのは一週間前のことだった。昼食を乗せたトレーをテーブルに置いて席につく。嵐のように無数の声がぶつかって巻き上がる学食では、友人との会話もままならない。彼女はなんとなく視線を巡らせ、手元の箸で止めた。まんまるい目でそれを見つめ、見つめ、とにかく見つめる。箸は少し、ほんの少しだけぴっと動いた。肩の力を抜いた彼女はつまらなさそうに唇を曲げる。


能力とは、自分が持てる重量のものを1センチだけ動かせるということ。


果たしてぴったり1センチかどうかはわからないが、だいたいそんなところだろう。

疲れ果ててどろどろの液体みたいになったある日のことだ。せめてメイクは落とさなければと最後の力を振り絞ってクレンジングシートに手を伸ばした。満身創痍の戦士みたいに精一杯指を広げるがクレンジングシートは果てしなく遠い。どうかシートの方から手の中に飛んで来てくれないだろうか。魔法のように浮かんで動く様を思い浮かべ、浮かべ、浮かべ、ついに力尽きる寸前で、彼女はそれがこちらに滑る瞬間を見た。結局化粧は落とせないまま眠りに落ちた訳だが、気を失う前に見た不思議な光景は目が覚めても焼き付いていた。変な夢だと思い出しながらマグカップを見つめ、自分の方へ引き寄せるイメージをする。そんなこと起きるはずはなかった。ただの夢のはずだった。なのにマグカップはとても呆気なく、当たり前かのようにすっとテーブルを滑った。彼女は大きく目を見張り、固く瞬きを繰り返した。なんだ。今の。見間違い?しばらくフリーズした後で同じことをしてみた。マグカップはまた滑った。リモコン、スプーン、携帯、ティッシュボックス。ありとあらゆるものを夢中で動かした頃、日はすっかり午後をまわっていた。ハテナマークが頭の上で縦に整列する。これは一体どういうことなのか。私は超能力でもを身に付けたのか。なぜ1センチだけなのか。何か意味があるのか。何がきっかけでこんな力が生まれたのか。一つの疑問をめくると次の疑問カードが現れる。めくり続けて一週間、ひとつわかったことがある。手に入れたのは、全くと言っていいほど役に立たない能力だということだ。


「だって、1センチ動いたからって何が変わるわけでもないじゃん」

「え?なんか言ったあ?」

「ああ、ううん。なんでもない」


さっさと食べてしまおうと割り箸をぱちんと割りながら、目だけでそっと左隣を見た。大盛りのラーメンがある。今日は隣だった。だいたいいつもこの辺りの席で、たいてい大盛りラーメンを、決まって胡椒を振りかけて啜る男の子。たぶん同じ学年。学部はしらない。火曜日と金曜日だけのひそかな楽しみだ。緩みそうになる頬を引き締めるように唇をすぼめた。横から見るほっぺたの形が、何だかいいなって思う。それだけ。べつに恋だなんて立派なものではない。ただ、もうちょっと近くで見られたらなって思ったりしなくも、ない。


(そっか、こしょうだ)


醤油、ソース、七味、胡椒の順で置かれている調味料に目を走らせた。前に使った人が几帳面だったのか、調味料はぴったりきれいに揃えられている。ここで胡椒を取ったら、元に戻すときに胡椒を待ってるであろう彼と目が合うかもしれない。ああでも、ここにあるのはうどんだ。わたし、うどんに胡椒はしない。そんな小細工してまで接触したって、仲良くなる勇気もないくせに。でも、じゃあ、ちょっとだけ。近くに手を伸ばしてもらうだけ。胡椒をこっちに1センチ寄せたら、彼の手はそれを取るために1センチ近くへ来る。

視線を落下させて、狙い定めるように胡椒を見つめる。頭ごと向けると不自然なので、目だけで、なるべく自然に、自然に見つめる。1センチだけ。それくらいいいでしょう。こっちへ来い、来い、来い。しかしどうしたことか、一向に胡椒は動かない。1センチどころか少しも動かない。カタカタと僅かに震えるだけだ。


「あれ、」

「なんで」


彼女は思わず呟いた。やはりよこしまな考えでは能力は使えないのではないだろうか。瞬時にそんな事を思ったが、しかし落胆する暇もなく反射的に顔を上げる。自分の声に重なり、隣から声が聞こえたからだった。たぶん、いや確かに「なんで」と言った。声の主はまさに隣の彼で、彼もまた顔を上げ、ふたりはまともに見つめあってしまった。気のせいじゃなく、一瞬じゃなく、はじめて。初めてこんなに本当に目が合った。周囲の声が止むわけないのに、なぜか音が遠く小さくなっていく。背景がぼんやりと滲んで白くなる。ただ彼の存在だけが鮮明だった。眉の端っこに古い傷を見つけ、その感触を確かめたいだなんてことを、彼女は考えていた。


「え…」


固まったふたりの間で、胡椒と、そして七味までもがなかよくポーンと飛び上がる。まるで危機一髪の海賊みたいに。重力に引き戻される途中で蓋が開き、中身が溢れた。まぬけな二人にはらはら降りかかる。


「わっ」

「うおっ」


それをきっかけとしたようにやっと喧騒が帰ってくる。胡椒と七味は全部溢れて、瓶は空っぽになってテーブルを転がり、周りの人には注目されるし、なんだか目がしょぼしょぼするし、鼻もむずむずするし、あと、その日から二度と超能力は使えなくなってしまった。火曜日と金曜日。彼女はだいたいこの辺りの席で、わかめうどんを、いつだって七味をかけて食べていた。

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