1999年8月20日

 まさか女子大生に青あざをつけられるとは思わなかった。右太腿と左上腕はいいとして、左頬の腫れはみっともない。体中が敗戦を迎えている。

 オリンピック公園内にあるユースホステルで朝食のパンをかじっていると、誰もが「その顔は一体どうしたのだ?」という目を向けてくる。決して強盗に遭ったわけではない。テコンドー道場でポニーテールの21歳に成敗されただけだ。


 テコンドーの歴史は新しい。日本の松濤館で空手を学んだチェ・ホンヒ氏が朝鮮半島の古武術テッキョンなどを組み入れてまとめたとされるのがテコンドーだ。いくつかの改名を経て「テコンドー」の名称に落ち着いたのが1955年。


「連盟や流派によって内容は多少違いますが、基本的には蹴り技を中心としたスポーツです」


 ウニョンの弟ミンヒョンによる説明には、「スポーツ」という言葉が何度も使われた。シンキョク道場も所属する世界テコンドー連盟(WTF)が中心となりスポーツとしての明快さを追求し、88年のソウル五輪で念願の種目入りを果たした。

 漢字で跆拳道テコンドーと書く。「道」という字が入っている以上、そこに精神的な修練も存在するが、どちらかといえばスポーツとして明快な勝敗ルールを整備し普及させた経緯は面白い。競技人口や認知度では空手のほうが上かもしれないが、空手は流派が多く、画一的な勝敗判定が困難という課題を抱えたままだ。(※ 空手は2021年東京オリンピックから正式種目化。中国武術は現在も申請中)

 競技としての分かりやすさを求めたテコンドーは、いまや世界的なスポーツとして親しまれている。


「少し着丈が大きいかもしれませんが、よかったら使ってください」


 ウニョンの弟ミンヒョンが新品の道着を用意してくれていた。ミンヒョンは師匠のキム・ソンジュ氏と同じく長身で、なかなかのイケメンで礼儀正しい好青年だ。初対面にもかかわらず、この薄汚れた旅人を丁寧にもてなしてくれた。白い道着に袖を通し、本日のトレーニングの列に並ぶ。

 十分な柔軟体操とプムセと呼ばれる基本型のおさらいの後、スパークリングに移った。その時ペアを組まされたのが、その後俺を成敗したポニーテールの21歳である。このうりざね美人はこちらの自己紹介に笑顔ひとつ返さないどころか、”おまえを倒しに来た”と言わんばかりの鋭い視線を向けてきた。キム師匠の力強い掛け声のもとスパークリングが始まった。


 聞こえたのは「ダンダダン!」という衝撃音だけだった。無様に床に転がった俺は、一瞬何が起こったのか理解できなかった。

 競技としてのテコンドーは、技の華麗さこそが評価ポイントであり、ローキックよりもハイキックのほうが配点が高い。だがハイキックを狙えば、当然重心は不安定になる。

 ところが彼女は軽快にステップを踏むと、まるで2本の金属バットを振り回しているかのように左右の足を鮮やかにさばき、こちらのみぞおちにつま先をめり込ませた。続けざまに鋭い右足でこちらの首を狩りに来た。驚いて下がったが、次に見たのは振り上げられた左足の残像のみで、顔面に強烈な衝撃が走った。彼女は少し乱れた前髪をサッとこめかみに戻すと、倒れた俺に手を貸すことなく元のポジションに戻っていった。


 それから時間が来るまで3回も退治された。

 近所の食堂でビニール袋に氷をもらい、親にも張られたことのない左頬に当てながらソウルの街を観光した。


「彼女の名前はパク・ヒョンヒ。梨花女子大の3年生で去年大邱テグで行われた女子フライ級の3位。アタシよりも10倍強い」


 暴漢をたった10秒でコンクリートに沈めたウニョンが、”自分より10倍強い”と評価する領域は、俺の体に痛みを伴って刻み込まれた。ちなみに梨花女子大といえば、ミッション系では世界最大の女子大である。

 夕方、再びシンキョク道場を訪れると、すでに彼女は黒帯を締めて練習を始めていた。左足だけで重心を取り、様々な角度から右足を振り出し、道場の端から端まで移動していた。カットと呼ばれる技法で、昨日も向かい合った時終始彼女の予測不能な右足に翻弄され、間合いすら取れなかった。相当足腰が強くなければあのような体勢は維持できないだろう。

 俺やウニョンに気付いたパク・ヒョンヒは、サッと練習をやめてどこかに引っ込んでいった。まったく感じの悪い女である。帯を締め、道場に出て柔軟体操を始めていると鉄仮面オンナが大きなバックパックのようなものを担いで現れた。突然それを俺の前に放ると、流ちょうな英語で話しかけてきた。


「中に防具が入っている。柔軟体操が終わったら練習に付き合ってください」


 付き合ってくださいと言われてもねぇ。こっちはまだアンタから名前すら聞いてないんだぜ?

 するとこちらの心が読めるのか、彼女は腕組みしたままぶっきらぼうに言い放った。


「わたしはヒョンヒ。3か月後のプサン選手権で今度こそ1位を取りたいの」


 その表情は武人というより、アスリートとして極限をめざす顔だった。


「いいですよ、僕でよければ」


 ヒョンヒは頷くと、微笑みながら軽くステップを踏んだ。初めて彼女のさわやかな笑顔を見た。

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