1999年8月19日
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瓦屋根を乗せた伝統様式のこの店は、地元でも人気のサムゲタン専門店だ。若鳥にもち米やナツメ、朝鮮人参、ニンニクなど夏バテに効きそうな材料を詰め、そのままじっくり煮込んだ宮廷料理である。
グツグツと音を立てたまま運ばれた鍋を前に、ウニョンは俺に箸をすすめた。韓国ではお客様が先だからと譲らない。
「じゃあヌナ(姉貴)。お先にいただきます!」
彼女は、マシッケトゥセヨ(どうぞ召し上がれ)と目を細めた。
イ・ウニョンは大学の先輩にあたる。1年間の交換留学で日本語をマスターしたウニョンは、そのまま日本の大学に転入届を提出した。その後、もう日本語は勉強し尽くしたとして、今度は中国語学科に転籍してきた勉強家だ。俺が入学した時にはすでに3年生であり、無事にこの3月に卒業し今はソウルの化粧品会社で働いている。
ウニョンとは「中国京劇部」で知り合った。その日彼女は鏡の前で柔軟体操をしていた。スラリとした長身と一重の切れ目。長い黒髪を高く結び、彼女はバレリーナのように床に180度足を広げてストレッチをしていた。
「あなた、昼休みに韓国人たちと一緒にいたでしょ?」
ウニョンからの最初の一言は意外なものだった。たしかにその日の昼、経済学の授業で隣になった韓国人留学生たちに誘われ、彼らのキムパ(韓国風のり巻き)を分けてもらった。
「――彼らには気を付けて」
その時ウニョンはそれ以上何もいわなかったが、後日警告の意味を理解した。
<一緒に讃美歌を歌いませんか?>と誘われたのはそれから数日後のことだった。興味がないと断ると、<神を信じなければ日本は沈没します>と熱弁され大いに閉口した。パブテスト派の一派らしいが、その極端な思考に身内の韓国人留学生たちからも距離を置かれている連中だった。
「だから言ったでしょ。もししつこかったらわたしが文句言ってあげるから」
この事件をきっかけに俺は親しみを込めて「ヌナ(姉貴)!」と呼ぶようになった。ウニョンもそれを心得てか、何くれとなく俺の世話を焼いてくれる実の姉のような存在になった。
ウニョンは護身術を求めて俺が主催するカンフー部にやってきたが、そもそも彼女にそんなものは必要なかった。180度広げた足の膝に鼻先をくっつけている彼女のしなやかさは、子供のころから習っていたテコンドーのおかげだという。スラリと宙を舞った足から素早い踵落としを披露してくれたのは、部活の夏合宿の時だった。
「日本に来てからすっかり離れてしまったけれど、弟と10年以上道場に通っていたから」
ソウルにいる弟のミンヒョンは、今でも週に2回道場に通っているという。
ウニョンはダラけた後輩には厳しかったが、面倒見のいいサッパリとした先輩だった。口元に小さなホクロがあり微笑むと何とも色気があったが、浮かれた話を聞いたことはない。
「実はね、高校の時レイプされそうになったの。暗がりから出てきた男にいきなり押し倒された。あの時ほどテコンドーを習っていてよかったと思ったことはないね」
彼女はパチンパチンと拳を左手に当て不敵な笑みをした。
結局冷たいコンクリートに大の字にされたのは襲ってきた男の方だった。その事件以来すっかり男性不信になったウニョンは、24歳になった今も潔癖なままである。
「韓国は徴兵制度があるから性犯罪が多いの。わたしより強くて守ってくれる人がいたら考えてもいいんだけどね」
いきなり背後から抱き着かれたが、数秒で変態のアゴを砕き、その股間に強烈な足の甲をお見舞いした彼女のことだ。それより強くて優しい勇者など簡単に見つかるものではない。なかなかの親泣かせである。
<――ソウルに行ったら弟さんを紹介してもらえませんか?>
日本から送った手紙の返信には、弟ミンヒョンの直筆にウニョンの日本語訳が添えられていた。
<日本では姉が大変お世話になりました。師匠に確認したところ、ぜひソウルに来られたら我々の道場に立ち寄ってくださいとのことでした。一緒に練習できる日を楽しみにしております!>
こうしてソウルでの4日間はほぼテコンドー修行で埋まった。観光よりも先にまずは挨拶に行かねばならない。
バシン!というミットを叩く発砲音が建物の階段下まで聞こえてきた。
師匠のキム・ソンジュ氏は180センチを超える長身から繰り出した横蹴りを弟子が構えたミットに叩きこんでいた。1988年ソウル五輪の開会式では演武を披露したテコンドー界のレジェンドである。
「チャルオショッソヨ!(”ようこそ!”の意)」
差し出された手は、武人ならではの厚みがあった。早速この後の練習に出てもらうという。こうしてアジア最強伝説最終章「テコンドー編」のゴングが鳴った。
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