1999年8月15日

 そして誕生日の夜、于春麗ユーチュンリーが予約した老舗の北京料理屋で懐かしい面々と再会した。

 張宇ジャンユー一家や尹琳インリンをはじめ、97年の親善プログラムに参加した学生たちが駆け付けてくれた。


「日本の我が息子が20歳を迎えました。彼の成長を心から喜んでおります」


 代表して張宇ジャンユーのお母さんがマイクを取った。

 俺は涙だけでなく鼻水まで垂らし、ただただ頭を下げっぱなしだった。その様子に張宇ジャンユー尹琳インリンももらい泣きした。


「――敬愛する北京の朋友たち、お父さん、お母さん。そして于春麗ユーチュンリー姉さん。大好きな人たちに囲まれ、これ以上ない幸せな誕生日を迎えることができました。皆さんとのご縁こそ僕にとって最高のプレゼントです。まだまだ不勉強ですが、これからも変わらない友情と愛情をよろしくお願いします!」


 割れんばかりの拍手が起こり、誰が教えたのか「ガンバレ!」という日本語が投げかけられた。フィクサーである于春麗ユーチュンリーは、一番後ろの席でメンソールのタバコをくゆらせながら微笑んでいた。



 帰りのタクシーの中、于春麗ユーチュンリーは窓の外に顔を向けていた。


「なんてお礼をしたらいいか…」


 その美しい鼻筋につぶやいたが、彼女は「姉は弟の成長を喜ぶものよ」と言っただけで視線は眠らぬ北京の雑踏を向いたままだった。

 于春麗ユーチュンリーは決して俺を名前で呼ばない。わざわざ「弟」と呼び続けることで、ある種の壁を保とうとしているように思う。俺もそれにならって「姉さん」と呼ぶ。しかしそうでもして誤魔化さないとならない気持ちをお互い認識している。


 于春麗ユーチュンリーは、中国外務省の高官である父親に伴い、10代の半分以上を六本木に近い中国領事館で過ごした。そのまま都内の大学に進み、卒業後いくつかの日系企業を経て、26歳で中国外務省の外郭団体にあたる「北京国際友好協会」の対日責任者になった。

 この恐ろしく回転の早い美人を乗りこなす男はまだ現れないようだが、于春麗ユーチュンリーは突然肩を震わせて吹き出すと、こちらに向き直って俺の太ももの上に手を置いた。


「97年のあなたの誕生日を思い出すと今でも笑いが止まらなくなってしまう!」

「いつか姉さんの誕生日にケーキをお返しするので楽しみにしていてください」


 すると姉さんは瞬きを止め、こちらを真っ直ぐ見返してきた。


「そんなことしたら…」

「なんです?」

「東京まで行って殺すわ」


 北京市国際協会らしからぬ、穏やかではない言葉が返ってきた。


「姉さんにだったらいつでも喜んで殺されますよ」


 于春麗ユーチュンリーは意外な表情をして微笑むと、「わたしのことが好きみたいね」と再び窓の外に視線を戻した。俺なんかまだ子ども扱いで十分らしい。



「――あなたは于春麗ユーチュンリーのことが好きなのね。そして彼女もあなたのことが大好きね。付き合っちゃえば?」


 午後、医科大近くの公園を歩いている時、尹琳インリンは突然妙なことを言い出した。


「何をバカなことを言っている!あの人は俺の姉だ。それに10歳以上も上なんだぞ!」


 昨晩のタクシーの中での子ども扱いを思い出し、ややムキになって言い返した。

 しかし尹琳インリンは寂しそうに笑うと、「やっぱりね」と首を振った。


「…あの夜、于春麗ユーチュンリーから『あなたは彼のことが好きなの?』と突然聞かれた。びっくりして何も言えなかったけど、あの時の彼女の目は恐ろしかった。于春麗ユーチュンリーはあなたのことを誰にも奪われたくない。それぐらい好きってことでしょ」


 俺のハタチを祝うパーティー会場で、そんな女同士の暗闘があったとは知らなかった。

 クリスマスもバレンタインも知らず、勉強ばかりしてきた尹琳インリンでさえ、その時于春麗ユーチュンリーが見せた強烈な独占欲を感じ取ったらしい。


「やめてくれ。于春麗ユーチュンリーにとって俺なんかお子様もいいところだ。それにあんな何考えているか分からない人なんて好きになれない」

「じゃあ、どんな人が好きなのよ!」


 無理やり彼女の妄想を断ち切ろうとしたが、尹琳インリンが向けてきた視線には強い歯がゆさが滲んでいた。


「97年以来わたしはいつだってあなたの一番の友達になろうとしてきた!父が亡くなりそうになった時も、あなたからの励ましの手紙をいつも持ち歩いて辛くなったら何度も読み返した。昨日の誕生日会だって本当は張宇ジャンユーのアイデアじゃないわ!」


 鈍い俺は、この時彼女の説明に重要な部分が欠けていることを知らなかった。


「――尹琳インリンから誕生日会の話が出た時、『本当は彼と二人だけで過ごしたいんだろ?』と言って俺は遠慮しようとしたんだ。そしたら『二人だけなんて恥ずかしいからみんなでやろう』って彼女が言い出したんだぜ?」


 北京を発つ前に行った張宇ジャンユーの家で真相を聞かされた。


「ちゃんと彼女の気持ちにこたえてあげたんだろうな?」


 ひつこい追求に俺は口を閉ざしたままだったが、まさかここに来る前に、尹琳インリンから泣きながらプレゼントを投げつけられたことなど報告できるわけがない。


 その問いに笑って答えないまま、列車は夕暮れの北京駅を出発した。

 投げつけられた赤い包装紙の中には、北京天文台に行ったときに尹琳インリンが着てきたドレスと同じ紺色のシャツが包まれていた。そして「お誕生日おめでとう」から始まる手紙には短く言葉が添えられていた。


<本当は二人だけであなたのお誕生日を過ごしたかった。プラネタリウムで手を握ってくれた時、このまま部屋が明るくならないでほしいと思った――>


 列車は北へと向かう。

 <逃亡者は北へと向かうものだ>というどこかの小説で読んだ言葉が浮かんで消えた。様々な未解決を残したまま、思い出の北京が遠ざかっていく。

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