1999年8月14日

 そして、ハタチになった。

 人のやさしさも、世の中を構成するものも、自分勝手でわがままにしか理解できていない。だがそのアンバランスで尖った部分こそ自分らしさ。すぐに孤高に至るほど天井は低くはない。

 加速して、どこまでも遠ざかれ。きっとそこにも誰かがいるはずだ。


 バスタブに熱めの湯をはり、冷やしておいたスパークリングを開けた。

 今日一日誰とも会う予定を入れていない。「おめでとう」と言われるのは嬉しいが、気を遣われるのはくすぐったい。大好きな人たちが集まるこの街で誕生日を迎えられる。それだけで十分だ。


 部屋の電話が鳴っていた。

 目を閉じて聞こえないふりをしていたが、ベルはなかなか鳴りやまなかった。一旦は止まったが10分もしないうちに再び俺を呼び始めた。

 張宇ジャンユーか、尹琳インリンか。それとも上海からか――。

 あまりのひつこさに全身泡だらけのまま部屋を横切ると、濡れた手のまま受話器を取った。


「――お誕生日おめでとう。まだ寝ていたかしら?それとも誰かとご一緒だった?」


 意外な人物からのモーニングコールに背筋が伸びた。

 北京市国際友好協会秘書長、于春麗ユーチュンリー女史。

 「北京の姉」と慕う人からだった。


「どうしてここが分かったのですか!」

「ここは北京よ。わたしが知らないことでもあると思う?」


 姉さんは咎めるような口調で言った後、受話器の向こうで微笑んだ。


 2年前、当時高校生だった時に参加した両国親善プロジェクトにおいて、若干29歳という若さで中国側総責任者を務めたのが于春麗ユーチュンリーである。

 随行した区議会議員への対応、中国外務省や北京電視台など総勢100名近いスタッフへの指示など、その「デキる女」ぶりはアニメチックなほどだった。

 教師のような細身のフレームメガネにルージュを引いた厚ぼったい唇。

 その美しい横顔にひそかなあこがれを抱いていたが、とても一介の高校生が話しかけられるような人ではなかった。ところが最終日前日、そんな于春麗ユーチュンリーと俺を結びつける事件が起きた。


 両国関係者がひしめく記念パーティー会場でのことで、その時俺は張宇ジャンユー尹琳インリンたちと、一級料理人が切り分ける北京ダックを頬張っていた。


「(誰かキミのこと呼んでいない?)」


 隣の張宇ジャンユーに言われるまで気付かなかったが、于春麗ユーチュンリーが会場内で俺の名を繰り返し呼んでいた。口の周りの甜麺醤をぬぐいながら急いできた俺を認めると、于春麗ユーチュンリーは檀上から俺に手招きをした。

 恐る恐る上がると、彼女はおびえた俺を会場正面に向き直らせた。一拍置き、于春麗ユーチュンリーは会場に向けて中国語と日本語で呼びかけた。


「(明日8月14日は彼の誕生日です。1日早いですがお祝いしたいと思います)」


 すると後方に「祝你生日快楽!《お誕生日おめでとう》」という大横断幕が音を立てて流れ落ち、それを合図に会場後方から張宇ジャンユーたちがワゴンに乗せた大きなケーキを押してきた。

 于春麗ユーチュンリーはヒールの音を鳴らして降りると、彼らが運んできたケーキから大きく切り出し、紙皿に乗せて戻ってきた。

 スプーンで一口すくうと、大胆にも政府高官など200人が見守る中、「あーん…」と真っ赤な唇を開いた。


 ところが次の瞬間ベチャッという汚い音と共に、妖艶な彼女の姿は消えた。

 剥がれ落ちた紙皿の隙間から、おなかを抱えてうずくまっている于春麗ユーチュンリーが見えた。


「――誕生日なので一つお願いしてもいいですか?」


 ホイップクリームまみれの妖怪を見て、于春麗ユーチュンリーは再び吹き出した。


「僕をあなたの弟にしてください」

「いいわ」


 彼女はあっさり承諾すると、俺の頬についたホイップクリームを指先ですくってペロリと舐めた。

 以来、于春麗ユーチュンリーの「東京の弟」として、来日の折にはボディーガード兼運転手としてそばに仕えている。旅先から送るポストカードには必ず<忠実なる番犬より>と締めくくっており、その言葉通り、私設秘書という言葉では収まりきらない感情を”姉”と呼ぶことでぼやかしている。


「――それが北京に来たというのに挨拶すらないとはどういうこと!」


 張宇ジャンユーといい尹琳インリンといい、この部屋にかかってくる電話のほとんどはこうした激しいクレームである。


「違うんです!明日か明後日には友好協会に会いに行こうと思っていたんです!」


 全裸で受話器を握ったまま、俺は泣きそうな声を出した。


「言い訳なんか聞きません。1時間後に地下鉄建国門駅まで来なさい!」


 そういうと于春麗ユーチュンリーは一方的に電話を切った。



 建国門駅近くのドイツビールを揃える店で、半年ぶりに于春麗ユーチュンリーと向かい合った。姉さんは真っ赤な牡丹が刺繍されたロングドレスで現れた。


「なんでホテルになんか泊まってるの?わたしの家に泊まればいいでしょ?」

 

 于春麗ユーチュンリーはここからほど近い朝陽区秀水南街の高級アパートに一人で住んでいる。ひとしきり小言をいって落ち着くと、姉さんは追加のスタウトを注文した。


「さすがに姉さんのところに泊めていただくわけにはいきませんが、誕生日なのでひとつだけ聞いてもらってもいいですか?」


 言って、百貨店で包んでもらったブルートパーズのネックスレをテーブルに置いた。姉さんは何も言わずしばらく箱を見つめていたが、やがて微笑むと突然こちらに背を向け、白いうなじをこちらに差し出した。


「つけて…」


 姉さんの美しいうなじに触れた指先は細かく震えていた。しかしそれは「忠実なる番犬」にとって最高のバースデープレゼントであった。

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