1999年7月25日

 カオサンロードは世界中から集まってきた寂しがり屋でごった返していた。

 ふざけた態度のゲストハウスに、カットフルーツを売る屋台。大量のプリントシャツを並べたみやげ物屋。そして格安航空券の看板を出す旅行代理店――。

 バックパッカーから「聖地」と崇められるこの300メートル程の安宿街には、彼らにとっての必要と無駄が全てそろっている。


 朝から晩まで大きな荷物を担いだ旅人がさまよい、土埃が静まるのは明け方のほんの一瞬だけだ。

 早朝6時、ゲストハウスから少し離れたセブンイレブンにミネラルウォーターとマルボロメンソールを買いに出かけた。少しだけボリュームは下げられているものの、オープンバーからは昨晩からの重低音が続いており、酔いつぶれた白人の女の子が椅子ごとひっくり返るのを目撃した。

 そんな騒がしい朝6時を歩いていると、いきなりホースの水が降ってきた。これまた完全に出来上がった白人の青年が、歌手のマドンナになりきって、ホース片手に腰を振りながら『Like a virgin』を歌っていた。俺はびしょ濡れになりながら泥酔マドンナの横を通り過ぎた。



「――まあね。80年代はこんなんじゃなかったんだけどね」


 橋口氏は両替所に並ぶ長い行列を眺めながら呆れた声を出した。


「バックパッカー?そんなの卒業して20年以上になるよ」


 オープンテラスでポストカードに向かっていた俺に声をかけてきた橋口氏は、今は樹脂メーカーの駐在員としてバンコク駐在6年目だという。襟まで伸ばした長い髪のせいで若く見えるが、今年で48だとか。


「オッサンにはこの暑さは応えるよ」


 目じりに深いしわを刻んで橋口氏は笑った。

 カオサンとは「精米したコメ」という意味で、この辺りに多かった米問屋が、地方からバンコク巡礼にきた僧侶に2階倉庫を貸したのが安宿街の始まりだったとか。ディスコもみやげ物屋の売り声もなかった20年前を橋口氏は懐かしむ。


「アジア通貨危機に便乗して豪遊するために来た人がほとんどでしょ?昨日もチェンマイで少年にしゃぶらせていたドイツ人のジジイが逮捕されてたけど、最近じゃそんな羽目を外した外人客のニュースばかりだね」


 少し離れた席で、白人旅行者の一団が瓶ビールを打ち鳴らして大声をあげている。現地からすればお金を落としてくれるお客様には違いないが、その粗野ぶりはいささか行き過ぎを感じる。



 1997年のアジア通貨危機は、ここタイ・バンコクから始まった。

 工業立国を目指していたタイは、米ドルとの固定相場制と高金利で外貨を呼び込む金融政策をとっていた。当時アメリカの金利が5%台だったのに対し、12%という高金利が売りだった。結果、国家予算の10倍もの投資マネーが流れ込み、タイは好景気に沸いた。

 ところが90年代に入り、中国の台頭によって貿易赤字が拡大。にもかかわらず米ドルとの固定相場制に引きずられ、実体経済力に合わないタイバーツの過大評価が続いた。

 その歪みに着目したのがアメリカのヘッジファンドである。切り下げを狙い、一斉空売りを仕掛けたのが97年5月。その仕手戦に釣られ、ヨーロッパもバーツ売りに加わった。タイ中央銀行は外貨準備高を総動員して買い支えたが、わずか2か月足らずで陥落。変動相場制に移行したことでタイバーツは大暴落。外貨を使い果たしたタイ政府は石油さえ買えない状況になり、多くの銀行は統合に追い込まれ、街には失業者があふれた。


 アジア通貨危機を仕掛けたヘッジファンドは、その後同じ手口でマレーシア、インドネシア、フィリピン、韓国と次々に襲い掛かかった。バブル崩壊からようやく回復傾向を見せていた日本だが、これらの国々の経済回復を押し付けられ、その大きすぎる負担が「第2次平成不況」や「就職氷河期」という言葉が生み出した。

 それから2年経った。プーケットからバンコクへのフライトで背もたれに挟んであった雑誌の裏に興味深いイラストを見つけた。

 「97」という数字の下には雷と傘のマーク。「98」の下には曇りマーク、そして今年「99」年には、雲間から少しだけ太陽がのぞいているイラストだった。


「――とんでもない!まだまだ嵐の真っただ中だよ。お得意さんからは、原材料の支払いを立て替えてくれだのそんな話しばっかりよ。だからこうしてカオサンに来ては昔を懐かしんでるわけ」


 橋口氏は生温くなった残りを一気にあおった。



 ここには何でもある。

 一本路地裏に入れば密売人がウロウロしているとガイドブックに注意喚起が書いてある。性欲を満たしたければ、トゥクトゥクの運転手が朝から声をかけてくる。

 我々は享楽を求めて両替所に長い列を作り、タイバーツの札束をポケットにねじ込むと、土産物屋の前で「もう30バーツまけろ」と偉そうに腕を組む。そしてまた「ここはおまえらの植民地じゃねえ!」と教えるタイ人も見かけない。

 このわずか300メートルに集まる人間は、どちらも大切なプライドを忘れてしまっている。

 カオサンロードにあふれ返る喧噪を聞きつつ、朝からホースの水をぶっかけられただけに、あえて冷や水論を述べてみた。

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