1999年7月24日

 ポケットに余っていたマレーシア・リンギをタイ・バーツに両替してホテルに戻ると、部屋の電話が鳴っていた。


「――さきほど私どもの銀行で両替されましたね?よろしければお友達になりませんか?」


 女の声が言った。色々と言いたいことはあるが、とりあえずオマエは誰だ?。

 悪いけど結構ですと伝えたつもりだったが、「ちょうど今仕事が終わりましたので今からそちらにうかがいます」と声の主は勝手に電話を切った。


 エライなことになった。

 銀行の両替申請用紙など適当にやりすごせばよかったが、ホテルの名刺まで取り出して律儀に部屋番号まで書いたことが仇となった。

 とりあえずタバコをくわえた。部屋番号まで知られてしまった以上逃げてもしかたがない。ふたたび受話器を取ると、銀行のサービス窓口ではなく別の番号をプッシュした。


「…すまん。トラブルに巻き込まれた」


 クラブ・ヌンヌンヌンの騒音が聞こえる。事情を聞いた店長のヌンは豪快に笑った。「わかった。オンナのことなら任せておけ!」と言うと、こちらもいきなり電話を切った。

 それにしても業務上知り得た個人情報を流用するとはなかなか大胆だ。窓口の顔など覚えてないが、女ではなく男だった気もする。いずれにせよ、いざとなればヌンがひっぱたいてでも連れて帰るだろう。とりあえず部屋を片付けて何が起こるか待った。


 30分後、部屋をノックする音で目が覚めた。

 一応瞬時に相手の喉元に一発お見舞いできるよう拳を握り、ゆっくりとドアを開けた。


「ハロー、メアイカミン?」


 アルファベットにもできない下手クソな発音で微笑んでいたのは、女ではなく青年だった。

 一応ドアから顔を出して辺りを見回してみたが、今にも泣きそうな顔をした青年以外誰もいない。彼はしぼみかけた風船のようにフワフワと部屋の中に入ると、海岸線沿いの砂浜を見て「いい眺めですね」とつぶやいた。

 そこへほぼ同時に、渚の若大将ヌンがM20バズーカーでも入っていそうな大きなボストンバッグを提げて乱入してきた。全員が立ち尽くしたが、やがて銀行からやってきた青年は、女のようなハスキー声でゆっくりと自己紹介をし始めた。


「(なんだコイツ?ゲイか?)」


 ヌンは目配せをしてきたが、俺も両手を広げて首をすくめた。


「国に帰ったら連絡をしてくれ…」


 そう言い残すと、ヌンはスクーターの排気音と共にビーチに引き上げていった。



 …それから1時間以上が過ぎた。

 ソムチャイ君23年の物語は、ようやく最終ページにたどり着いた。


「ソムとは”真の”という意味です。チャイはタイ語で”男”のことです」


 業務中に知りえた個人情報で客の部屋に押しかけ、あくびが出るほど長い自伝を聞かせる勇気については、たしかに「真の男」を名乗る資格がある。

 タバコの吸い殻がつまらなさそうに青白い筋を上げている。そろそろソムチャイ君との交流にも「The End」を打たないと、調子に乗って続編でも作りかねない。


「――話の腰を折ってすまないが、俺は今日中にバンコクに飛ばなければならない」


 タバコをもみ消すと立ち上がった。ところがこの咄嗟の判断は裏目に出た。


「それなら僕が空港まで送っていきます」


 運に見放されると、ちょっとしたウソも効き目がない。

 ホテルをチェックアウトすると、仕方なくが運転するホンダの中古車に乗り込んだ。ところが自ら送迎をかって出たにもかかわらず、「ところで空港までの道はわかりますか?」などと寝ぼけたことを言い始めた。その後ホンダの中古車は、東へ西へと無駄なガソリンを消費し続けた。


「――ところで、僕はこういう音楽が好きなんです」


 彼はハンドルを握りながらカセットテープを漁るとQueenのベストセレクションのカセットテープを押し込んだ。曲目は『I was born to love you』。

 はフレディ・マーキュリーになりきり、オカマがキャーキャー騒いでいるような声を張り上げた。ブライアン・メイの爽快なエレクトリックギターに合わせ、アクセルに力が入る。


「おい!前を見ろ!」


 俺の叫び声とほぼ同時に前方に黒っぽい何かが吹き飛んでいった。目を見開くと、道の真ん中で小動物が大の字になっていた。

 安いカーステレオから「ハッハー!イッツ・マジック!」というフレディ・マーキュリーのバカみたいな声が流れていた。大喝を喰らったはしばらく沈黙していたが、やがて気を取り直すとセカンドバッグから古い腕時計を取り出した。


「これは以前僕が使っていた時計です。外国人の友達ができたらその人にあげようと思っていました。どうか受け取ってください」


 文字盤はアラビア数字ではなく、タイ文字の数字が並んでいた。全部@マークにしか見えないが、とりあえず時は刻み続けているようだ。

 さすがにそれは受け取れないと突き返したが、真の男は「僕たちは友達じゃなかったんですか?」と本当に泣き出しそうになった。


「…そうだな。俺たちは友達だ」


 色々言いたいことはあったが、仕方なくタイ文字が並んだ腕時計を左手に巻いた。その時はじめて彼の笑顔を見た気がする。



 ちょうどよいタイミングでローカルエアーのバンコク行きがあり、スコールに包まれたプーケット島を飛び立つことができた。雲を突き抜けると青い空が広がっており、眼下にはエメラルドグリーンに浮かぶ島々が見えた。

 ソムチャイ君との出会いのせいでだいぶ早まってしまったが、バックパッカーの聖地バンコクは2時間後。南の島の思い出を胸に、俺はしばらく目を閉じることにした。

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