1999年7月21日
中央にしつらえたステージにまた新しい女が立った。
ソバージュをかけた長い髪を振り乱し、毒々しい真っ赤な唇をマイクに近づける。リズムに合わせて軽くステップを踏みながら腰をくねらさせ、寝苦しい南の恋でも歌っているのだろう。
ここはペナン通りとレイス通りに挟まれた「レッドガーデン」と呼ばれる屋台村だ。地元マレー料理をはじめ、東南アジアの庶民の味を気軽に楽しむことができる。
レッドガーデン屋台村の真ん中には特設ステージが設けてあり、地方巡業中の売れない歌手だろうか、代わる代わる舞台に上がってはマイクを握っている。
誰も聞いていない。
登壇したお姉ちゃんの太ももをチラリと見ると、誰もがおしゃべりに戻っていく。だがお姉ちゃんも負けていない。負けじとドラムビートに合わせて激しく腰を振りながら、気だるい熱帯夜を叫んでいる。必然的にテーブルを囲む声のボリュームも上げざるを得ない。このお姉ちゃんと一般客の果てしない報復合戦を、焼き鳥を頬張りながらビールで流し込む。「サテー」という鳥の串焼きに塗られた甘辛ピーナッツソースには唸らされる。
レッドガーデンの各テーブルには番号が振られており、客席をぐるりと囲む屋台で注文をする時、合わせてその番号を伝えて帰ってくる。料理が出来上がるとおばちゃんがテーブルまで料理を運んできてくれるというシステムだ。
「トィリマカシィ!(マレー語で「ありがとう」の意)」
「ホッケンミー」とは、マレーシア・ソウルフードの一つと言っていい。
あっさりとしたビーフン麺とエビ出汁スープの相性がいい。「正宗福建蝦麺(Hok-kien-mee)」という看板の下に、日本人観光客のための訳語らしきが書かれていた。正宗とは本来「本場の~」という意味のはずだが、看板にはなぜか『まじめに作ったホッケンミー』と歪んだ日本語が書かれている。
じゃあ、『ふざけて作ったホッケンミー』というのもあるのか。麺の代わりに、焼いた雑巾でも入っていたらチップでも払ってやりたい。
ともあれ運ばれてきたホッケンミーは、さすが「まじめに作った」だけあって、エビの濃厚なダシが効いており、そのクオリティは東京の一等地で出しても恥ずかしくない。それが数十円という昭和初期の立ち食いソバと変わらぬ価格で提供されている。これは事件だ。
宿に戻ると、1階のインターネットカフェで機関銃のようにまくし立てている女がいた。小脇に『地球の歩き方』を挟んでいるから日本人であることはすぐわかった。どうやら部屋で覗き被害にあったらしい。
「アタシがシャワーカーテンを開けた瞬間サッと人影が逃げていったってわけ。絶対犯人はここの従業員だって!」
でっぷりとした腹を突き出した宿屋のオヤジにフジコさんは猛抗議をした。ところがオヤジは面倒くさそうに「I don’t know」と手を振るばかりで、逆に嫌なら出てけとでも言いたげだ。残念ながらこれが安宿街の実態である。
深夜まで明かりをつけているオープンバーに誘った。
フジコさんは6年間勤めた会社を辞めて旅に出てきたという。
「――しばらくやめてたけど、1本だけちょうだい」
テーブルに投げ出していたマルボロメンソールを手に取ると、フジコさんは勝手に1本抜き出した。シャッというライターの灯が、彼女の右目の下にある涙ぼくろを浮かび上がらせた。
仕事を辞めるって勇気いりますかという質問に、「アタシの場合辞めざるを得なかった」と返ってきた。
「アタシね、上司と不倫をしていたの。それが会社にバレていられなくなったの。結局こういう場合損するのはオンナなのよね」
フジコさんは、通りの向こうに続く暗闇を見たまま煙を吐きだした。
相手には奥さんがいた。
「いい?相手に奥さんがいたから”不倫”なの。カノジョだったら”浮気”で済むけどこの違いは大きいのよ」
どちらも他人のものであるという点では変わりないが、不倫の場合、社会的制裁が待ち受けている。
「いきなり人事部から呼び出されて、事実確認と来期の希望異動先を聞かれたわ。ウチは銀行系列だから減点主義なの。人事部に目をつけられちゃったらおしまいね。ムカついたけど色々リセットするために会社辞めて一人旅に出てきたわけ」
こういう旅も実在するのだ。
ウェーブがかった黒髪を後ろで高く結び、Kiss my ass(くそくらえ!)と書かれたTシャツの裾をパタパタ引っ張りながらフジコさんは汗を拭った。その表情は悔しそうというより、少し疲れ切っていた。
「別にアタシは奥さんと別れさせようなんて少しも考えてなかった。でもやっぱり残念だったのは、会社にバレた途端カレから別れを告げられたことかな。独り者のアタシと守るべき家族があるカレとでは、会社からの減点の意味合いが違ったってわけ」
その時はじめてこれは浮気じゃなくて不倫だと気付いたという。
まだ言いたいことは山程ありそうだったが、フジコさんは顔をあげると「聞いてもらってスッキリしたわ」と微笑んだ。
「――グッド・ラック。フジコさん!」
旅人との別れにこれ以上の言葉はない。
月が雲ににじんでいた。とりあえず西へ西へと進むというフジコさん。その表情は少しだけ明るさを取り戻していた。
「ま、切り替えよっと」
今夜の覗き事件のことか、あるいは職場での火遊びのことだったか。
明日は微笑みの国タイ王国の国境をまたぐ。お互いの旅の無事を祈りつつ笑顔で今夜を締めくくった。
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