1999年7月15日

「――飯はいらん。オレは寝る。そう伝えておけ」


 左隣のジェニーおじさんは高度が安定すると、リクライニングを倒して目をつぶった。二言三言しか話していないので、彼がオーストラリア出身のカーエンジニアだという以外何も知らない。ひどくお疲れのご様子で、しきりに目頭やこめかみを揉みながら、終始不機嫌そうに顔を歪めている。

 怪しいオヤジだ。よほど差し迫った事情がなければ、カーエンジニアという高給取りが、あんなしわくちゃのスーツにくるまれているはずがない。目を閉じてこちらに背を向けたが最後、逃亡中のスパイのようにそのまま冷たくなっていたなどという展開だけは勘弁してもらいたい。

 ところが彼は、その後シンガポールまでの7時間15分について、舌打ちだらけの空の旅を味わうことになる。



 <杭州新興旅游団>というバッジをつけた連中は、パスポート取得の前に幼稚園からやり直すべきだった。

 この恐ろしく騒がしい中国人団体客は、シンガポール航空の翼を借り切ったつもりでいるらしく、意味もなく客室乗務員を呼びつけ、反対側の席にいる親族に大声で話しかけ、まるで文明というものを知らない。

 ジェニーおじさんは眉間にしわを寄せて目を閉じていたが、あまりの騒音に耐えきれず、始終「シェット」だの「ファック」だのと悪たれをついていた。


 右隣の悪代官のような顔をしたオッサンの胸元にも杭州新興旅游団の黄色いバッチがついていた。彼は運ばれてきた機内食のふたを持ち上げてしばらく考え込んでいた。どうやらエビという甲殻類を初めて見たらしい。

 彼はしばらくそれを箸で裏返したり匂いをかいだりしていたが、おもむろに殻付きのまま口の中に放り込むと、尖ったエビの頭ごと、材木加工機のようにバリバリと口の中で粉砕し始めた。口当たりの悪い部分は屁のような音とともに吹き飛ばし、前の背もたれや俺の足元に誤爆させている。

 とうとう飛行機を降りるまで、「生まれてきてスミマセン」の一言ももらっていない。


 凶悪といえば、通路を挟んだ婆さんも中途半端なワルではない。

 客室乗務員を呼び止めては、ぶっきらぼうに「コーラ!」と発声する。赤い缶とプラスチックを受け取ると、何事もなかったかのようにそれを足元に置き、ほとぼりが冷めるとまた呼び出しランプを点灯させる。


「コーラ!」


 何度そのふてぶてしい声を聞いたことか。

 機内食が片付く頃には、上空10,000メートルでコカ・コーラ帝国を築き上げ、悠々自適な余生をお過ごしになられていた。だが、神はこの強欲三昧を見逃さなかった。

 自分のために残しておいた最後の1本のプルタブを引き、別の親類が同様の手口で強奪してきたナッツの袋を開けようとした時、力余って豪快にナッツをばらまいてしまった。その衝撃で倒れたコーラ缶が婆さんの股間を一斉に襲い掛かったのである。

 ブルース・リーぐらいしか出せない悲鳴を周囲が聞いた時には、婆さんの汚れを知らぬ純白のパンティは、とめどなく溢れ出した黒い砂糖水に犯されてしまった。

 ジェニーおじさんと俺は顔を見合わせると悪い顔をして笑った。



 期末試験を終えた足で、そのまま空港に来た。

 クラスメートの藤木は福岡出身で、留学生と見間違うほど陽に灼けている。新入生歓迎会の際、「色が黒いけどインド人と間違えないように!」とわざわざ付け足して全員に厳しく忠告していた。その強い久留米訛りを聞いて、インド人と間違える日本人は一人もいないが、結局藤木についたあだ名は「カレー」だった。


「おい、カレー。ビジネス中国語Aの試験で俺の横に座らせてやる。100点の答案用紙をこっそり見せてやるから適当に何問か間違えておけ。その代わりこのクソ重たいフランス語の辞書を2学期まで預かってくれ」


 藤木は、今日はこの後飲み会だからと苦情を述べたが、結局中国語の単位のために魂を売った。


「それにしても、これから1カ月を超える長旅に出るのに荷物はこれだけね?」

「ヘッ!おまえらアウトドア部とは鍛えがちがうんだよ」


 答案用紙を提出したその足で、俺が成田空港に向かうことを藤木は知っている。

 たまにアウトドア部の連中が登山用のザップバッグを天日干ししているのを見かけるが、ワンゲル部だのキャンプ部出身は荷物が多すぎる。冬のヨーロッパで野宿をする気なのか、彼らは決まってバックパックの上にロールケーキ状に巻いた寝袋を担いでいる。しかしベルリンでの経験からもいえるが、いざというときに頼りになるのは逃げ足の速さだけだ。


「じゃあなカレー!バーベキューやキャンプもいいが、あまり火遊びばかりしてないでちゃんと勉強しろ」


 フランス語と中国語の試験を終えると、たすき掛けのバック一つで八王子から成田に向かい、今東シナ海の空の上にいる。

 隣のジェニーおじさんの事情はよく分からないが、逃亡者という意味では俺もあまり変わらない。残っている中国政治学と哲学の期末試験を捨ててきた。また、10日ほど前に後輩の女の子から真剣に告白されていたが、口を開けて固まったまま出かけてきてしまった。たとえここの乗客全員の欠点を知っていたとしても、俺ほどの無責任もいない。


 窓の外にシンガポールの光が見え始めた。

 いったん静かになっていた杭州新興旅游団の連中も再び息を吹き返し、奇声をあげはじめている。ジェニーおじさんは面倒くさそうに首の後ろを揉むと、ヘル+シェット+ファッキン何とかと、彼らに対する最大級の感想をつぶやいた。

 時刻は午前0時。東南アジアの長い夜が眼下に広がっていた…。


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