Episode2
~Prologue~2019年1月20日
「――まだ店長にも言ってないんですけどね、近々店辞めてジブンも放浪の旅に出ようと思ってるんです」
急に声のトーンを落とすと、彼は鏡越しにこちらを見ながらニッと歯を見せた。”放浪の旅”などという気骨ある言葉を聞くのは久しぶりだ。「そういうの若いうちじゃないと無理じゃないですか」と、彼は再びハサミを動かしながら真顔に戻った。
行きつけの美容室を予約したのは、明後日からの会社説明会のためだった。
<――そろそろ新卒でも入れて、会社に新しい風を吹き込まなきゃダメだと思うんだよね>
社長としての経営方針を投げ出し、新入社員の奇抜なアイデアに託すつもりか。
近頃どうもおかしな方向に進み始めている。胸を反らせたコンサルが社長室に出入りするようになってから、会社としての目標を見失い始めている。社長マターで進めてきた子育て関連のイベントは、最終的に1,800万円の赤字を計上したばかりだ。その戦後裁判も行われないまま次は新卒採用では断じてない。
しかしコンサルの魔術にやられてしまった社長に現場の声など届かなくなってしまった。営業や設計部からは、”新卒なんていらねぇよ”と上に言えない分の言葉が降り掛かってくる。しかし幼い子供を抱えたまま戦うわけにもいかず、あとは無策な新卒採用の結果について感じ取ってもらうしかない。人事課長という役職が重くのしかかっている。
話を西池袋の美容室に戻す。彼の顔はこの美容室が立ち上がった頃から知っている。しかし岐阜出身で趣味はキャンプという以外名前も知らない。
「年越しキャンプはどうでした?」
鏡越しに尋ねると、彼は「今年は富士山はやめました」とあっさり返した。
「富士山のご来光キャンプは有名になり過ぎて、去年から入場制限がかかるようになったんです。人間がウジャコラいるキャンプなんてあり得ないんで、仲間と相談して今年は大井川にしました」
ノーネーム君では申し訳ないので、とりあえず「キャンプ君」と呼ぼう。
キャンプ君は、ウチらは非常事態以外お互い一切干渉しないっていうルールなんでと胸を張る。だったら最初から一人で行けばいいと思うが、わざわざルールまで敷いて距離を保とうとする発想がいかにも今どきだ。
「何でも質問してくるヤツっているじゃないですか?そういうのマジ無理なんで」
この連中は森の頂きにご来光を拝んでも、元旦のあいさつなど一切しない。今年一番の朝日を浴びて気が済んだら、それぞれテントを畳んで退散する。みんなで大鍋を分け合うこともなく、ジャンベを叩いて大騒ぎなどもっての他らしい。
そんなキャンプ君が考える世界放浪の旅もなかなかエキセントリックだ。ちなみに彼は今までパスポートを取得したことすらない。
「――とりあえず中国に渡って美容師やりながらカネ貯めようと思ってます。日本人の美容師ってマジ需要あるみたいなんで」
あまりのことに、「え?お金貯めてから出発するんじゃないの?」とすら出てこなかった。
「ところでVISAって何スか?オレ買い物とかマジ興味ないんで」
どうやら国際ブランドのクレジットカードと入国許可証との区別がついていないらしい。彼の頭の中では、パスポートで入国審査官の横っ面を引っぱたけば国境など存在しないと思っている節がある。
それに渡航先で経済活動をするなら就労ビザだ。「着いてから働き口を探します」では、そういうジョークに付き合っている暇はないと追い返されるだろう。
黙って働いてりゃ分からないんじゃないですか?と無邪気に言うが、見つかれば間違いなくお店は営業停止となり、キャンプ君は外交カードとして半笑いでは済まされない罪をでっち上げられ、共産国家の拷問部屋で何らかを自白するまでSMプレイを楽しまなければならない。泣き叫ぼうと大井川で
他人の世話になることを極端に嫌がるらしいのでそれ以上は黙っておいた。しかしこのままヘラヘラと海を渡れば、間違いなく大いに他人の世話になることだろう。
当時の俺もさすがにここまで無頼漢ではなかった。しかし思い返してみれば旅人を自称する連中のほとんどは、誰にも干渉されたくない代わりに誰の助けも求めなければいいんだろ?と自分の命も他人の時間も粗略に考えていた。俺ももれなくそういう一派にいたが、やがて孤独は面倒くさいと気付いた。情報も圧倒的に少ないし、何より気持ちを共有する相手がいないため全てを自分で飲み込むしかない。
「仲間っスか?そこは大丈夫っス」
キャンプ君はドライヤーを手に再び歯を見せた。
「ジブンが旅に出た後、キャンプ仲間もオレを追いかけてくることになってます。でもスマホやタブレットは禁止。互いに手紙で連絡を取り合いながら、最終的にヨーロッパのどこかで落ち合おうって決めてます」
またあの無口な連中のお出ましか。
それも手紙でやり取りって、どんだけ遠回りをしたら気が済むのか。
ヨーロッパの街角で再会したキャンプ君とその仲間たちは、再会を喜んでハグをするわけでもなく、ただ個々に達成感に浸ってニヤニヤと空を見上げるだけだ。
他人の旅にとやかく言うまいが、その晩ぐらいは道中苦労話を肴にうまいビールでも囲んだらどうかと思うのだが――。
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