1999年3月19日

「――純愛って感じだよね。だってお互い別々の部屋だったんだよ?」


 サキは髪を指先にクルクルと巻き付けながらはにかんだ。メトロ7番線でミュゼ・ドゥ・ルーブル駅を目指す。


「青少年のためのユースホステルを舐めるなよ。ラブホテルと一緒にするな。それに何度もいうが付き合ってないだろ!」


 一人旅のラストがこんなオチになるとは思わなかった。


「今日でお別れだっていうのにムードもへったくれもないね」


 サキはわざとらしくそっぽを向き、俺もそれに被せるように大きなため息をついた。

 今夜サキは一足先に日本に向けて出発する。その最終日の朝、サキは泣きはらした顔でロビーに現れた。


「アムロちゃんのお母さんが殺されたんだって…」


 17日、歌手の安室奈美恵の実母が義弟に轢殺されるという衝撃的な事件が起きた。


「日本は今その話題で持ちきりだって。アムロちゃんってアタシと生まれた年も日にちも一緒なんだ。札幌ドームでコンサートがある時は必ず応援に行ってたし…」


 パリにいる”もうひとりのアムロちゃん”は、そう言うと俺の肩にもたれて鼻をすすった。勝手に人の肩を借りてうなだれていたが、しばらくして座り直すとサキは顔を上げた。


「夕方までまだ時間あるからデートしよ?」


 アムロちゃんの不幸にかこつけて、気晴らしにどこか連れてってとぬるりとカノジョポジションを取る。突き出された『地球の歩き方』を仕方なく受け取ると、パラパラとページをめくった。


「――セーヌ川クルーズ、ベルサイユ宮殿、ルーブル美術館。この中からひとつ選んで」


 サキはほとんど即決で「ルーブル美術館に行きたい」と返してきた。こちらの薄ら笑いに気付いたらしくいきなり脛を蹴飛ばしてきた。


「バカにしないでよ!これでも小学校の図工はずっと5だったんだからね!」


 どこに小学校の図工とルーブル美術館を並べる奴がいる?

 俺はいよいよ肩を震わせて笑い始めた。


「だいたいその格好はなんだ?ルパン三世の仲間と間違えられて入り口で止められるぞ」


 大きなゴーグルに黒のライダースーツという、どう見ても国際窃盗団そのものを指さした。が、声を発するより早く女パンサーは飛び上がり、ライダースーツの腕を素早く俺の首に巻き付けた。


「死にたい?」


 さっきまでアムロちゃんが気の毒だと涙していたはずが、いつものスパイシーな彼女が戻ってきてよかったと思った。


「時間がないからさっさと行くよ!」


 慌ててサキの背中を追いかける。外にはパリの穏やかな日差しが降り注いでいた。



 ルーブルで美術鑑賞を終え、シャンゼリゼ通りを歩く。

 何の知識もなく回るにはルーブル美術館は広すぎ。1時間もするとどちらともなく「出口はどこ?」という話題になった。これが小学校の図工で2を取り続けた男と、自称ずっと5だった女のルーブル美術館である。


「色々よかったけど『アモルの接吻で蘇るプシュケ』にはグッときた」


 遠くにかすむ凱旋門に目を細めながらサキはつぶやいた。

 翼をはためかせ地上に降りたアモルと、岩肌から体を起こし美しい喉をみせつけるプシュケ。ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』には「へぇ」とそっけなかったくせに、この彫像には何かしら心を動かされたらしい。


「『グッときた』とはずいぶんと雑だな。泣きそうにでもなったか?」


 うっかり口を滑らせたことに気付いた時には遅かった。コンコルド広場で本日2回目のヘッドロックに遭う。


「そんなに死にたいのねっ!」



 通りがかったハーゲンダッツで好き放題注文させて機嫌を直してもらった。

 マーブルチョコをトッピングしたチョコミントアイスを突きながら、それでもサキは毒づいた。


「リュウってホント余分な一言が多いよね。幼稚園からやり直したほうがいいよ」


 俺はわざとらしく口にチャックをした。


「でもリュウのおかげでパリが好きになった」


――そりゃ、おめでとさん。

 こちらはお陰様でガチャガチャとした旅の終わりになってしまった。


「…あのさぁ、リュウにお願いがあるんだけど」


 サキは時計を気にしながらスプーンを置いてこちらを向いた。


「ひとつは凱旋門には行かないでほしいな。最後の最後にあれに登りたくなっちゃった。だけどさすがにタイムリミットだわ。いつかまたリュウと一緒にパリに来たいからそれまで残しておいてくれる?」


 凱旋門はすぐそこで夕陽の中でオレンジ色に輝いていた。


「どうせ登ったらまた生まれたての子牛みたいに膝をガタガタ震わせてしがみついてくるんだろ」

「笑ったら二度と笑えないようにするからね」


 サキは軽く脇腹を肘で突いた。


「…それからもう一つ。チューして」


 突然やわらかいものが押し付けられた。ふんわりと彼女の髪が香った。

 サキは一体「アモルの接吻で蘇るプシュケ」から何を学んだというのか。これは接吻などという扇情的な風景ではなく、ただ乱暴に唇同士がぶつかっただけだ。

 サキはスッと離れると「何もいわないで」と一方的にこちらからのクレームを遮った。そしてこちらを指さし「冷たいチョコミント味!」といたずらっぽい笑顔を浮かべた。さすがルパン三世の仲間だけあっては大胆かつ鮮やかだった。


「じゃあね相棒!」


 サキは席からぴょんと飛び降りると荷物を背負った。

 最後はライダースーツの女らしく、振り返らずにパリの人込みの中に消えていった。その姿を見送りつつ、サキが残していったチョコミントアイスを一口舐めた。

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