1999年3月20日

 この旅を知っている友人に向け、ポストカードに言葉を添えて投函した。

 この自作自演の22日間について、<とにかく俺はやり切った>ということを誰かに伝えたかった。家族にも友人にも同じようなことを書いたが、あと1枚どうしても仕上げておかなければならない。宛先は中国・上海――。


 空港に向かう前にもう一度シャンゼリゼ通りを歩いた。そこにチョコミントアイスを美味しそうにすくっているサキはもういない。近くの電話ボックスに入り、長い番号を打った。パリの街角から、上海タワーが見えるあのアパートへ――。


「ウェイ?《もしもし》」

「お久しぶり。誰だかわかりますか?」


 あえて日本語で言った。

 受話器から小莉シャオリーの柔らかい声が返ってきた。


 最終日パリを出発する前に「さようなら」とだけ告げよう。

 うっかり忘れるはずもないのに、わざわざ旅の手帳の1ページ目に書いた。もちろんその電話のためだけに旅をしてきたわけではないが、前に進むためにはどうしても必要な儀式なのだ。さらにいえばその電話は今日でなければならない理由があった。


――ちょうど一年前の3月20日。

 その日、上海タワーのてっぺんが見える窓の横で最後の朝食を始めようとしていた。ふたりとも箸を見つめたまま動かなかった。やがて小莉シャオリーは声を上げて泣き出した。ラジオからフェイ・ウォンの『我願意(ウォユェンイー)』という歌が流れていた。

<あなたのためなら自分の名前もいらない。1秒でも長く一緒にいられるなら、世界のすべてを失ってもかまわない。あなたのためなら空の彼方へ追放されてもかまわない…>

 その朝から1年経った。



「――パリ。わたしも一緒に行きたかったです」


 涙がこぼれた。旅の資金は彼女を日本に留学させるために蓄えてきたものを崩して用意した。


<――あなたのためなら空の彼方へ追放されてもかまわない>

 それは一年前の『我願意』であって、今その残骸を拾い集めても元の形には戻らない。小莉シャオリーはなぜ今パリにいるのかとも聞かず黙ってこちらの話しを聞いていた。さよならを言うなら今しかない。ひとつ呼吸をして言葉を開こうとした瞬間、彼女は遮るように意外なことを言った。


「…わたし、待ってます。これからもあなたをずっと待っています」


 頬を伝うものを横殴りにすると思わず大きな声を出した。


「いい加減なことをいうなっ!」


 この一年、映画館に来たカップルどものチケットをもぎり、睡魔と戦いながら『我願意』を実現させるために耐えてきた。にもかかわらずあなたは蘇州の金持ちを選んだ。それについても痛みと絶望に泣きわめいたりせず、静かにそれを受け止めた。そしてあなたを忘れるためにこんな大袈裟な一人旅に出たのだ。それを今さら「あなたを待っています」とはどの口が言うのか。


「わたしの話を聞いてください!」


 小莉シャオリーは叩きつけるように叫んだ。


「お見合いのために両親があちこちでお金を配っていたことを後で知りました。両親はそのために老後の蓄えをすべて使い果たしてしまいました」


 良家との縁談のために口利き料を配る。コネがすべての中国ではあり得ることだ。突然贈られてきた新築マンションの鍵を送り返そうとした小莉シャオリーに両親はすがった。年老いた両親が全財産を賭けて紡いでくれた金持ちとの縁談。それを蹴った場合に身動きが取れなくなってしまった。決して「お金を選んだわけではない」と彼女は強調した。

 途中から涙声になっていた小莉シャオリーは、言い終わると今度は沈黙を続ける俺を責め始めた。


「待っていてほしいと言われたら、わたしは上海を離れてあなたを待つつもりでした。だけどあなたは”わかりました”と言っただけで、わたしを救ってくれなかった。彼は今すぐにでも結婚したいと言ってきていますが、わたしには今もあなたしかいないんです!」


 国際電話のプリペイドカードが残り1分を告げた。

 詰まっていた息を吐き切ると、できる限り落ち着いた声を出した。


「さっきは大きな声を出してごめんなさい。あなたの気持ちはわかりました。あとでポストカードを送ります」


 どうにか言い切ると、受話器を置く前に付け足した。


「If I can see you again《もしまた会えるなら》…」


 そうつぶやいた瞬間、通話は無機質な音と共にブツリと切断された。静かに受話器を戻すと、涙が渇くまで電話ボックスの地面を見つめていた――。



 KE902便の搭乗手続きが始まった。

 書き終えたポストカードは空港のポストに投函した。どうしても<愛してる>という言葉で締めくくることはできなかった。その言葉の責任を抱えて生きてきた。それは喜びの何倍もの痛みを与えるものだった。


<――わたしたちには手を取り合って喜んだり笑ったりした思い出が足りていません。もしもう一度会えるならその時はたくさん笑い合える時間にしたいです>


 そう結ぶとポストカードに口づけをして投函した。


 人生が夢に溢れていることを教えてくれた旅だった。スナフキン先輩が言っていたように、目を凝らせば世の中は美しいものにあふれているのかもしれない。しかしそれはそれまでに受けとった悲しみの量と無関係に存在するのか答えは出なかった。

 機体がゆっくりと旋回しながらゆっくりと高度をあげていく。眼下には夜霧に濡れたヨーロッパの灯りがじんわりと霞んで見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る