1999年3月16日

 スイス・ツェルマット村まで列車で22時間。あまりにも果てしない。

 17時半にブダペストを出発した国際列車は、ウィーンやザルツブルグというオーストリアの主要都市を超え、明日の朝7時にスイスのブフスという街に到着する。このリヒテンシュタイン公国と隣接する街からスイスの古都クールへ。そこでチューリッヒやベルンを通過する列車に乗り換え、登山電車の登り口となるフィスプに至る。そこからアルプスの冬景色を楽しみつつ終点ツェルマットに到着するのは明日の午後15時過ぎである。


 読み進める本もなく、ノートとペンしか持ってきていない。しかし旅先には移動時間の長さなど忘れてしまうほどの出会いがある。ザルツブルグから乗ってきた館野氏の旅のテーマは興味深い。


「昨年末ようやくサラリーマン人生を卒業しましてね」


 顔中をくしゃくしゃにする笑い方に癒される。ご子息もすでに独立し、長年の夢を叶えるべく舘野氏はヨーロッパにやってきた。それは「著名人の墓参り」という風変わりなものだ。


「これはザルツブルグ・アニフ村のヘルベルト・フォン・カラヤンの墓。こっちが聖セバスチャン教会にあるモーツァルトの妻コンスタンツェの墓。ちなみに右側はモーツァルトの父レオポルトの墓石ですな」


 テーブルには墓石屋の営業マンですら持っていないほどのコレクションで埋め尽くされた。歴史に名を遺した人物のそれとはいえ共感する言葉が見つからない。しかし館野氏は「こっちはベートーベンの墓で、これはブラームスとシュトラウスで」と尚も忙しい。この列車でスイス・ローザンヌに向かい、そこでヘップバーンとチャップリンに会いに行くという。その後はパリで3週間ほど滞在するらしい。


「パリは墓マニアにとってはたまらんですよ!ショパンやエディット・ピアフが眠るペール・ラシェール墓地。ユトリロやニジンスキーのモンマルトル墓地。サルトルやデュラスのモンパルナス墓地もありますな」


 時間があればパリ郊外のゴッホとその弟テオの墓も訪ねるつもりだと嬉しそうに語る。まるでアニメフェスに向かうオタクの表情である。


「妻からは悪趣味だと笑われますが、サラリーマン時代から墓巡りはやってましてね。都内なら多磨霊園や雑司ヶ谷霊園。駒込の染井霊園にもよく通いました」


 地元の染井霊園には高村光雲や二葉亭四迷、すぐそばの龍眼寺には芥川龍之介が眠っている。もちろん一度も訪ねたことはない。


「健康のためにも行ってみるといいですよ。かなり歩きますからね。しかも人混みで疲れてしまう心配もない。家内なんか美術館に行っては人が多すぎて疲れたって文句言いながら帰ってきますからね」


 お墓巡り以外に趣味はありますか、とそれとなく話題をそらした。「あとはこれぐらいですな」とカバンからキヤノンの一眼レフが出てきた。


「といってもお墓の写真ぐらいしか撮ってないので」


 結局お墓の話題に戻った。

 現像した写真は自宅のリビングに飾っているという。奥さんはよく耐えた。週末ごとに夫が持ち帰ってくる墓石コレクションがリビングの壁をどんどん狭くしていく。たとえ偉人のそれであったとしても、決して囲まれて気持ちのいいものではない。

 帰国後はトイレにまでギャラリーは拡張されるのだろうか。写真とはいえベートーベンの墓の横で大便をするにはそれなりに勇気がいる。館野家最大の危機はすぐそこまで来ている。

 しかし63歳にも夢があるという。


「お墓とバックパッカーをかけまして、『バック墓ぁ〜』という本を出そうと思ってるんです」


 まぁ誰も買わんでしょうがなと舘野氏はふたたび顔中をくしゃくしゃにして笑った。その出版記念がトリガーとなって熟年離婚というオチだけは聞きたくない。


「家内にはなかなか理解してもらえませんが、やっぱり歴史に名を残した偉人の墓の前に来ると身が引き締まりますよ。ご本人がすぐ目の前にいるんですからね」


 モチベーションはそこらしい。何かご自身に課しているルールとかはありますか、と聞いてみた。


「ルールと言うほどではないですが、写真を撮らせていただくので必ずお花は供えさせていただきます。それから事前にその人の作品に触れてから訪ねるようにしていますね」

 

 だから舘野氏の定年後は忙しい。図書館から蔵書を取り寄せたり、主演代表作を観たりと、次ののための準備に追われる日々だという。行った先で偶然にも別の偉人のお墓を発見したとしても「そこはグッとこらえて帰ってきます」という。必ずその功績や作品をチェックした上で出直すというストイックさに筋金入りを感じる。


「――ところであなたの旅のテーマはなんですか?」


 急なカウンターパンチに面食らう。気付けばこの旅も残すところあと4日になった。フランクフルトに向かう飛行機の中でも同じ質問を受けたが、うまく答えられなかった。


「…たぶんゴールした時に答えが出ると思います」


 そう。パリ最終日に用意した「ミッション」を完了させたとき、きっとこの旅の役割がハッキリするはずだ。


「人生にもお墓というゴールがあるように、旅にも必ずゴールがありますからね。共に頑張りましょう!」


 館野氏の不吉な鼓舞を聞き流し、精一杯の笑顔を返した。

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