1999年3月17日
「――この辺りは春になってもスキーが楽しめるからいつもは混んでいるんだけど、今夜はほとんど貸切ね」
管理人のおばあさんの声に振り返る。案内された部屋にはまぶしい西日が差し込んでいた。窓を開けると、ミント風味の風が部屋にふんわりと漂った。
標高4478メートル。マッターホルンは夕日を浴びて金塊のように輝いていた。スイスとイタリアにまたがるこの岩山は、4つの斜面から成り立っており、その東壁と北壁をスイスに向けている。ツェルマットはマッターホルン麓の小さな村で、雪深いこの季節、村の街道にはスキー板を担いだ観光客でにぎわっているが、初夏にはエーデルワイス咲き誇るアルプルの村へのハイキングという楽しみ方もある。
スキー場へと続く坂道を登りながら土産物屋を冷かしていた。すると、突然誰かにケツを蹴飛ばされた。
「リュウ!生きてたのね!」
黒のレザーパンツに黒のライダースジャケット。首から提げた大きなゴーグル――。アムステルダムの夜と同じ格好のまま、サキは白い息を吐きながら目をキラキラさせていた。
サキは流暢な英語で甘めの白ワインを二人分注文した。軽くグラスを打ち鳴らすと、落ちてきた前髪をさっと耳の後ろに流し、再びメニュー表を広げた。
「スイスといったらコレ欠かせないよね」
手を上げると、勝手にチーズフォンデュも追加した。
「アムステルダムの後すぐにイタリアに飛んだの。でも男たちが蚊みたいに寄ってきてマジうざかった。危うく男嫌いになるところだったよ」
溶けたチョコレートのような声で寄ってくるイタリア男どもが、ライダースーツのサキに睨まれて退散していく様子はちょっとした活劇だ。
「何笑ってるの?」
サキはソーセージをフォークでプスリとやると、たっぷりとチーズソースをすくって美味しそうに頬張った。
「ねえねえ。リュウってカノジョいるの?」
互いに旅の話が済むと、サキはいきなりプライベートに切り込んできた。口当たりのいいアルザスワインが彼女の頬をほんのりと染めている。
「結婚の約束までいった恋人がいたが最終的に彼女は別の人を選んだ。それから2ヶ月経ったがどうやって気持ちを終わらせたらいいのかわからない。だから旅に出た」
旅に出たことで
「あのさぁ、さっきからお金持ちの相手がどうのこうのっていうけど、たぶんそこじゃないよね?」
言葉を返してきたサキの目は、少し怒っているかのように見開いていた。
「たしかにマンションの一室なんてすごいと思うよ。だけどそれはその人のやり方でリュウにはリュウなりのやり方があったはずだよ。諦める前にちゃんと伝えることがあったんじゃないの?」
マダム・ケイコも似たようなことを言われた。すべてを察して「わかりました」だけでは女性的には不十分らしい。しかしだからと言って、一体何が言えたというのか。
確かにサキがいう通り、<リュウにはリュウなりのやり方>というものを
それでも何も言わずに堪えてきたのは、<そもそもわたしたちには無理があった>とこれまでの努力ごと切り捨てられるのが怖かったからだ。「もう自分の意志ではどうにもならなくなってしまった」という言葉に無理やり何かを継ぎ足したところで、無様な敗北を認めざるを得ない言葉以外が返ってくるわけがない。
「――リュウはね、格好つけすぎたんだよ」
サキは横を向いてタバコに火をつけた。こちらのムッとした表情に気付いた彼女は慌ててグラスを手に取った。サキに腹を立てるのは間違っている。だがこちらの涙ぐましい努力も知らず「格好つけすぎ」とは酷すぎる。
夜の静かな村に2人分の靴音が響いているが、ふたりの間には深い沈黙が隔てていた。
「さっきのは言い過ぎた。ゴメン謝るよ。でもアタシだったらふたりのためにそこまで頑張ってくれるカレシは絶対手放さない」
サキはポケットに手を突っ込んだまま、下を向いてボソボソと詫びた。
「ところで明日はどうするの?」
「俺はスキーをしに来たわけじゃない。帰国日も迫っているから明日の午後にはパリに向かう」
するとサキは急に明るい表情をして立ち止まった。
「ホントに!?アタシも明後日帰国しなきゃいけないから明日パリに移動する予定だったの。一緒に行こうよ!」
サキは一人ではしゃぐと、突然俺の腕に絡みついてきた。
「ゴメン。つい嬉しくなっちゃって」
慌てて俺の腕から離れたところを見ると、まだ羞恥心は残っているらしい。
「わかったよ。じゃあ明日何時に出発する?」
俺もとことん甘い。憧れのパリに入るというのに、なぜこんな「おてんば姫」とご一緒しなければならないのか。深いため息をつくと、面倒くさそうな顔を作ってわざと彼女に向けた。
「よろしくね、相棒!」
サキは元気よくそういうとスキップをしながら「星がキレイだね!」と夜空を指差した。
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