1999年3月13日
初めてクラシックのコンサートに連れて行ってもらったのは、ヘルベルト・フォン・カラヤンが亡くなった1989年のことだった。子供向けの管弦楽曲を集めたコンサートで、ラストのチャイコフスキー『1812年』は圧巻だった。
金管楽器の煌めきや、シェリーグラスのような女性バイオリニスト、そしてタクトを振るうタキシードの優美さにうっとりしたものだ。音楽鑑賞は母の趣味だったが、週末にコンサートに連れて行ってもらえるとなると指折りにその日を楽しみにしていた。
ただ、そこだけ切り出せば「愛された子供時代」かもしれないが、俺にとって少年時代とは控えめに言っても地獄の日々だった。
小学1年の終わりから塾に追われた。駄々をこねれば部屋のブレーカーを落とされ、メシ抜きなど当たり前。空腹のあまり玄関に活けてあった花をむしって食べたこともある。
両親はバブル期の浮かれた風に乗らず、地道に会社を育て、那須高原に別荘を持つほど成功した。ところが夫婦そろって高卒というコンプレックスを我々兄弟につぎ込むことで克服しようとした。
<オマエみたいに偏差値の低い人間、世の中に出ても誰からも相手にされないよ!>
最近になって「教育虐待」という言葉を知った。誕生日プレゼントにお願いした天体望遠鏡を、模試の結果次第でパーツごと分割して与えるような親である。夏休みも冬休みもなく、放課後に友達と遊ぶことも禁じられ、土日は特別講習やら全国統一模試に追いかけ回された。
やがて俺はウソをつくことを覚えた。塾をさぼり、夜の公園でひとりベンチに座って時間が過ぎるのを待つようになった。
中学受験全滅は当然の結果だった。最後の合格発表で息子の受験番号が見つけられなかった母は号泣した。居間で突っ伏して泣いている母を見てとんでもないことをしてしまったと思ったが、それは少年にとって静かな終戦だった。
一人ぼっちの夜の公園での友達は、ウォークマンとカセットテープだった。
コンサートで見たホルンやトロンボーンのきらめきや優美なドレスやタキシードを思い浮かべた。そうして目を閉じれば、そこは真っ暗な公園ではなく花咲くヨーロッパの舞踏会に変わる。
母はワルツを嫌った。「軽々しい」と実もふたもなかったが、俺のお気に入りはヨハン・シュトラウス2世のワルツやポルカだった。ワルツ作品以外にも『こうもり』や『ジプシー男爵」といったオペレッタ作品まで集めていた。
当時、とても好きな子がいた。
5年生の春に転校してきた子で、目のぱっちりとした可愛らしい子だった。別のクラスの子だったので全く接点がなかったが、ある日塾に向かう地下鉄の中で彼女を見かけた。彼女も大きな塾カバンを背負っており、同じ駅の別の塾に通っていることを知った。
<彼女も中学受験するんだ…>
地下鉄の中で時々目が合うことはあったが、向こうも別のクラスの男の子である俺に話しかけるてくることはなかった。やがて俺は彼女が駅のプラットホームに現れるまで、何本も電車を見送るようになった。しかしそんな彼女の「悪いウワサ」を聞くようになったのは6年生に上がって少ししてからだ。
<あのコ、一緒に帰ると途中で「家に帰りたくない」って泣くから面倒くさいんだよね>
学年一の美人へのやっかみもあり、特に女子からの評判は悪かった。さらに詳細を教えてくれたのは意外にも母だった。
「この前受験ママの集まりに行ったら、去年転校してきたあの子がお母さんに連れられて来ていたよ。お父さんは銀行勤めのエリートで、『慶應以外人間として認めない』っていう人なんだって。だから当然娘も慶応に入れるために相当詰め込んでいるらしいよ」
サッと顔色を変えた俺を見て利用価値を見つけたのか、「もちろん娘の結婚相手も慶應じゃないと認めないだろうね」と付け足した。
地下鉄で見かける彼女の表情は、学校で見るものと全く違った。あまりの顔色の悪さに、座っていたサラリーマンから席を譲られているのを見たことがある。親だけが鼻息を荒くしているのはウチと全く同じ構図だった。
…ワルツを踊ろう。僕はきっとやさしく君をエスコートする。こんな毎日から一緒に抜け出そう。重たい塾カバンなんか冷たい公園のベンチに捨てて、僕と一緒に遠い世界にいこう――。
とうとう卒業式まで彼女に声をかけることはできなかった。
厳格な彼女の父親は滑り止め受験さえ認めず、慶應中等部一本に絞らせたらしい。彼女の受験失敗と同時に父親の転勤が決まり、一家はそろって神奈川の茅ヶ崎に引っ越していった。
卒業式の日、彼女は大勢の男の子から告白を受けていた。だがその顔はひどく青白かった。俺はその横を通り過ぎながら<さようなら>とつぶやいた。
午後、ウィーンに到着した。
バイオリンを構えたヨハン・シュトラウス2世の黄金像は、ウィーン市立公園の広場で大理石のレリーフに囲まれていた。
集めたCDのジャケットにもなっていた像は、想像していたよりもずっと小さかった。たまたま通りかかった散歩中の婦人にお願いし、ヨハン・シュトラウス像と一緒に写真を撮った。
大好きだったあの子とのワルツは叶わなかったけれど、冷たい公園のベンチでイヤホンを当てていた少年にとって、希望が持てる一枚になったに違いない…。
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