1999年3月12日

 プラハ城の尖塔を頂点に、オレンジや黄といった穏やかな色合いが緩やかななで肩を描いている。この旅始まって以来の陽光がプラハの街に降り注いでおり、その光を浴びたモルダウ川のさざ波が白く輝いていた。


 スメタナ・ミュージアムから一日を始める。

 1863年からの6年間、作曲家ベドジフ・スメタナが住んでいた建物である。オペラ『売られた花嫁』などもモルダウ川に面したこの建物で生まれた。館内には神経質そうな直筆の楽譜や愛用のピアノなどが展示してあり、外のテラスには「今日で3日は寝てません」という表情のスメタナがブロンズ像になっていた。最晩年は不眠症や幻覚に悩んだらしい。痩せこけた頬に埋まった小さな目は、今日も変わらぬモルダウの流れを眺めていた。

 モルダウ川に架かるカレル橋からの眺めは絶景だ。プラハ城へと続く参道にはみやげ物屋が並び、観光客は美しいプラハの色を忙しくカメラに収めている。

 首を伸ばしてアングルを決め、シャッターに指をかけた瞬間、突然聞こえてきた怒鳴り声に思わず指が止まった。


「何度も言ってるだろ!」

「そんなのアンタのワガママでしょ!」


 世界遺産カレル橋で最も聞きたくない雑音である。おそろいの色違いリュックを背負った若い男女が、橋のたもとで人目を引いていた。

 そういえば今朝ホテルの食堂にいた日本人カップルである。女のほうは黙って目玉焼きにナイフとフォークを当てており、向かいには頑固そうな角刈りの男が、彼女の手元を睨みながら不機嫌そうにコーヒーを吸っていた。どうやら火種は今朝の朝食の段階から燻っていたようだ。

 相変わらずの日本語の罵り合いはさらに観客を集めていた。<ざまあみやがれ!>と彼らにズームを合わせたところ、ファインダーの中で女の強烈な視線とぶつかり慌てて別の方向にカメラをむけた。女はプイと背を向けると、来た道を足早に去っていった。角刈り野郎はその背中にまだ何かを浴びせていたが、やがて捨て犬のようになす術もなくその場にたたずんだ。

 俺のプラハ観光を汚した罪を味わうがいい。橋のたもとに捨てられた角刈り野郎を目に焼き付けると、薄ら笑いを浮かべて宿に戻ることにした。


 ホテルに戻り、ラウンジで疲れた足を伸ばしている時だった。


「あのスミマセン。『地球の歩き方』って持ってたりしますか?」


 首をひねると、なんとカレル橋に捨てられていた角刈り野郎が眉を八の字にして突っ立っていた。



「明日ブルノまで行く予定だったんですけど相方がガイドブック全部を持って行ってしまって。バスの時間確認できて助かりました」


 そいつはめでたいが言いたいことならこっちもたくさんあるぞ、角刈り野郎。

 お前さんたちの派手なドンパチに同じ日本人として恥をかかされてるんだ。チェコ第二の街ブルノ行きのバスを確認できたのはいいとして、果たしてその相方とやらは戻ってくるのかね。


「財布もぜんぶカノジョが持っててはぐれちゃったので、やっとここまで歩いて帰ってきました」


 ”はぐれた”などととぼけているが、本当は橋のたもとに捨てられていたではないか。こちらの意味ありげな視線に気付いたのか、角刈り野郎はとうとう「ホントはケンカしちゃって」と白状した。


「なんでケンカしちゃったんですか?」


 成り行きでマイクを向けてみたが、返ってきたくだらなさにひっくり返りそうになった。


「今日はプラハ最終日だったんで一番よかった場所にもう一回行こうって話しをしてて。でも相方は旧市庁舎の天文時計、ジブンはプラハ城って割れてしまったんです」


 実に鼻くそ案件だ。旧市庁舎もプラハ城もそれほど離れているわけではない。少しだけ譲り合えば今頃は思い出の一枚も増えていたことだろう。それでも角刈り野郎は熱量を保ったままくだらない痴話ケンカの詳細を聞かせ続けた。


「とにかく相方はこうと決めたら絶対曲げない性格なんです。今朝も目玉焼きにはソースか醤油かっていう話になったんですけど『目玉焼きにソースをかけるなんて舌が腐ってるんじゃない?とか言うんですよ。マジあり得ないっス」


 朝見かけた二人の沈黙は、こんな呆れて物も言えない内容が発端だったらしい。


「でもまぁ付き合って3年にもなると結局居場所っていうか、ケンカしても何だかんだで離れられないんですよね」


 うっせぇ角刈り野郎!てめぇなんざヤスリで磨いて丸刈りにしてやらぁ。

 他人ののろけ話には反吐が出るが、<居場所>という言葉に心の中で波紋が広がった。小莉シャオリーとの恋愛は確かに無理が多かった。ひと月に1回の手紙の往復と2カ月に一度の国際電話。それでも彼女を信じた。だがもしかすると「彼女に尽くす」という居心地の良さに大事な思考が停止していたのかもしれない。


「――きっとうまくいきますよ」


 あいまいに請け合っていると、噂の相方殿がロビーを通って現れた。こちらに一瞥を投げつけると、彼女はそのまま颯爽と部屋へ消えていった。


「やっと相方のヤツ帰ってきた。今夜は長くなりそうだ」


 角刈り野郎は深いため息をつくと、何度もペコペコして奥へと消えた背中を追いかけていった。

 いよいよ明日はオーストリア・ウィーンだ。ヨーロッパを目指した理由の一つは間違いなくウィーンにある。ぶつかり合いながらも居場所にしがみつく君たちに乾杯。あなた方にとってもよい明日が来ることを祈りながら、俺も早めに休むことにしよう。

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