1999年3月11日

 クラクフ中央駅にいた老夫婦に見送られること10時間。進行方向の先に夜光虫のような光の群れが見えてきた。世界一美しいと讃えられるチェコ共和国プラハはすぐそこだ。風はいつになく穏やかな夜だった。


「¿Eres Sr.Jackie Chan?(もしかしてジャッキー・チェン?)」


 廊下でまるで質問に値しないことを聞いてきたのは、バルセロナから来たアレハンドロという少年だった。あばたの多い顔を縮れ髪が覆っており、まるでカップ麺を頭からぶっかけられたような印象だ。よせばいいものをこのカップ麺野郎のジョークに乗り「アミーゴ。どうか秘密にしておいてくれ」と耳元で答えてやった。


「(ぜひ仲間を紹介させてくれ!)」


 「秘密にしておいてくれ」をどう解釈したらそういうことになるのか。彼はジャッキー・チェンらしきの袖を引っ張ると、1階の食堂スペースに連れて行った。そこにはお仲間たち20人程がコーヒーを飲みながらくつろいでいた。


「(ジャッキー・チェンを連れてきた!)」


 驚異的なことに、この馬鹿馬鹿しいニュースに彼らは騒然となった。

 一同を狂喜させたのは、このジャッキー・チェンらしきが大学の中国京劇部に所属する「筋金入りのカンフーバカ」だったことであり、本物がそうであるように、俺は終始ニコニコしながらファンサービスに応じた。

 スペイン人たちはイメージ通り、正気とジョークの境目が曖昧な連中だった。カップ麺野郎は中のスープがこぼれるほど踊りだし、巨乳のお姉さんに押しつぶされるほど抱きつかれ、戦国武将のようなヒゲのオッサンからはサインを求められた。

 やがて全員分のクッキーが行きわたると、カップ麺野郎は「(聞きたいことがある)」と皆の衆を静かにさせた。


「Do you love Mao?」


――マオ?真央?摩緖?

 そんな女は過去にも登場しないとかぶりを振ると、カップ麺野郎は「(ノンノン!女の話しじゃないよ)」と肩をすくめた。


「ほら、あなたの国にはたくさん銅像があるでしょ?こんな格好の」


 巨乳のお姉さんは英語で横から入ると、指先をまっすぐ伸ばして額の高さに持ち上げた。気付けばカップ麺野郎と愉快な仲間たちはジャッキー・チェンらしきの言葉を息を殺して待っている。

 ふと彼らのテーブルに置かれた赤い手帳に目が留まった。ようやくMaoの正体を理解し、恐る恐る言葉を選びながら答えた。


「…ああ、毛沢東(Mao Zedong)先生のことですね?」


 一斉に「コミュニズムだ!」「リスペクトだ!」と崇高な叫びがあがり、火薬が爆発したような騒ぎになった。アルコールとエクスタシーで脳ミソをやられた連中は、「実は旅のクライマックスにとんでもないテロを計画している」と声を潜めた。

 4日後の深夜、プラハ共産党本部にバルセロナからぶら下げてきた真っ赤なペンキをぶちまけるつもりだという。なぜ同じ宗旨のプラハ共産党本部を襲うのか、その辺りの事情について巨乳のお姉さんから寄り添うように長い説明を受けたが、色々あってよく理解できなかった。

 間違いなく彼らの旅の終着駅はプラハの留置所になるだろう。カップ麺野郎は警官にひっぱたかれ、巨乳のお姉さんはトルコ辺りに売り飛ばされ、このろくでもない観光客どもが引き起こした鼻くそレベルのテロ事件は一件落着。めでたし、めでたし。


 同じ国境が100年と続いたためしがないヨーロッパにおいて、「政治」とは決して専門家の領域ではなく、自立しより良く生きるための必須科目である。

 カップ麺野郎たちが何に怒り、どんな理想を掲げているのかわからなかったが、少なくとも政治に対して傍観者を決め込んでいない点は誉めるべきだ。


 「もちろんジャッキーさんも同行してくれますよね?」という声に我に返った。気付けば巨乳のお姉さんに右腕をしっかり取られており、偽物ジャッキー・チェンは狂喜の円陣の中笑顔だけ同化させた。

 「(今夜はパーティーだぜぃ!)」と騒ぐカップ麺野郎を振りほどき、表通りに飛び出した。追手を確認すると大通りの反対側にあるバーに逃げ込んだ。


「とりあえずビールを」

 

 荒い呼吸を整えながら近くにいたマスターに告げた。しばらくして出てきたのは、湯気を立たせたジョッキだった。

 小鍋で温めた黒ビールにシナモンが振りかけてある。ほんのりと甘いのはハチミツのおかげか。気持ちを落ち着かせてくれる香りの正体はクローブだろう。エキゾチックな一杯は体中をもみほぐしてくれるようだった。


「――これを飲むと風邪をひかない」


 愛想の悪いマスターの声に顔を上げる。

 ホットワインは有名だが、ホットビールというのは初めてだ。チェコの国民一人当たりのビール消費量は、お隣ドイツを抜いて世界一位である。なるほど寒い夜にこのやさしい一杯は効きそうだ。


「1杯だけでいいのか?」


 マスターは再び声をかけてきたが、「まだプラハ初日だから」と断り店を出た。恐る恐るホステルに戻ったが、幸いカップ麺野郎と愉快な仲間たちはそれぞれ部屋に退散した後だった。

 せっかくプラハまで来たのだ。政治闘争もいいが、彼らもあそこのカウンターバーでホットビールを囲めば、すこしは穏やかな気持ちになれるだろう。

 明日はプラハ市街観光に出かける。絵葉書の一枚でも家族に送ってみるか。

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