1999年3月9日

 15世紀末に建てられたバルバカン要塞を過ぎ、クラクフ旧市街に入る。ポーランド南部クラクフは、第二次大戦の間ドイツ軍司令部が置かれたことが幸いし、かつての王国首都の遺産を戦禍から守ることができた。


 赤レンガの城壁に沿って歩いていると、画材を広げている男が目に留まった。彼の作品と思われる聖マリア教会やヴァヴェル城のスケッチと並び、「Portrait(肖像画)30$」という小さな貼り紙を出している。興味を示して近寄ってきた俺に手招きをするわけでもなく、彼はさわやかな笑顔をひとつくれただけだった。


「1枚描いてもらえますか?」


 なぜそんなお願いをする気になったのかわからない。彼は静かに頷くと、正面に置いてある小さな椅子を指さした。

 ヤン・マテイコ美術アカデミーといえばポーランド最古の美術大学である。イーゼルの向こうで鉛筆を走らせている彼はそこに在学中だという。「将来は?」と尋ねると、意外にも「シェフになりたい」と返ってきた。


「家具デザイナー志望だったんですけど、どうも僕には才能がなくて。先日『Like Water for Chocolate』(邦題『赤い薔薇ソースの伝説』1992年)というメキシコ映画に影響されてシェフになりたいと決めました」


 美大最高学府出のシェフというのも面白い。彼はサーモンムニエルの皿にどんな絵を描くのだろう。きっとそこには単純な足し算や引き算以上の驚きを演出してくれることだろう。


「だいたいこんな感じでしょうか」


 神経質そうなまなざしを行ったり来たりさせていた彼はキャンバスを反転させた。彼は「東洋人を書くのは初めてだから」と断っていたが、繊細な線の交差がこちらの特徴をよく捉えていた。約束の30ドルに5ドル足し、固い握手を交わすと夕暮れが迫る旧市街広場を後にした。



「――さっき中央広場で肖像画を書いてもらってましたよね?」


 ロビーで観光案内を広げていると後ろから声を掛けられた。胸元にペンを差し、大きなクロッキー帳を脇に抱えた男が微笑んでいた。

 学芸大で建築を学ぶ山崎氏は、フィンランドからバルト三国を通り、2日前にここクラクフにたどり着いた。旧市街の片隅で画家とにらめっこをしているところを見かけたらしい。それにしてもやたら美大生と出会う一日だ。山崎氏は細身のメガネを持ち上げて続ける。


「わたしはアアルトの作品を中心にヨーロッパ建築を見て回っていましてね」


 アルヴァ・アアルトとは、20世紀を代表するフィンランドの建築家だ。アアルトの特徴は、自然光や木材などの天然素材を引き立てるデザイン性にあるという。

 

「例えば床材ひとつとっても自然光の反射だけで部屋を明るくする黄色を採用したり、人と自然が合理的に調和できるデザインが特徴なんです」

 

 山崎氏は各地で訪ねたアアルト作品のスケッチをめくりながら、巨匠の設計哲学を熱弁する。彼の旅にクロッキー帳は欠かせない。建築や家具だけではなく、旅の途中で見た風景や人物など、カメラを取り出す代わりにクロッキー帳に鉛筆1本でまとめていく。旅を始めて1カ月。クロッキー帳はそろそろ4冊目になるという。

 山崎氏のスケッチは写生というよりメモ書きに近い。デッサンの中に「全体的にくすんだグリーン」とか「尖塔に向かって赤みが強い」など、様々な吹き出しが書き込まれている。時間ごとに変わる柱の影や人の導線など、そっけない表現ではあるが言葉で補足しているところは興味深い。


「これはポンチ絵といって設計の下書きなどによく使われる手法です。短時間で人物を描くクロッキーという技法と似ていて、素早くイメージを共有するための描き方なんです」


 人が住むことを前提とする建築において、静止画よりも影や人の動きなど動的な情報のほうが重要と強調した上で、だから自分の旅にはカメラは必要ないと山崎氏は言い切った。


「情報の正確さではカメラのほうが向いていますが、時間軸や人の導線といった部分は写真では伝わりません。どこを省き、何を拡大するか。スケッチとは常にそういう選択なんです」


 情報を極限まで削ることで、その意図するところが鮮明になる。

 文章も音楽も「削る」という作業からが本当のスタートなのだろう。何を残し、何を削るかというリズムの中で鋭利な輪郭に仕上げていく。その選択のセンスこそアーティストのすべてという山崎氏の講義は、いささか大袈裟にも聞こえるがおそらく本質的な部分は突いているだろう。



 話しを旅に戻す。

 山崎氏も一応その場所でクロッキー帳を取り出してみたらしいが、結局線一本描けなかったという。


「僕は空間デザインが専門なので、建物についてまず人の導線がどうなっているのかということを考えます。しかしあの場所は容積に比べて出入口が一つしかなく、採光もまるっきり考慮されてませんでした」


 その徹底的なデザイン否定に山崎氏は言葉を失ったという。歴史的な意味合いはさておき、建築家としての着眼点は実に興味深い。


「展示資料はたくさんありますが、目で見るより足の裏で感じ取ってみてください」


 山崎氏は部屋に戻る前にそう付け加えた。

 クラクフから西へ70km。アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所。

 歴史に名を残したその場所は一体何を語りかけてくるか。明日その場所を訪れる。

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