第1章

第1話



 自室ではないところで起きる、というのは中々に慣れないものだ。


 僕はベッドからゆっくりと時間をかけて起き上がり、大きな口を開けてあくびをした。


「……おはようございます」


 誰に聞かせるわけでもないのに、挨拶を口にしたのは、声を出すことで覚醒を促す意図があった。

 しかし、そう簡単に眠気というものが消えるはずもなく、僕は耐えきれず再び大きく口を開ける。


「ふわあああああ……ここはどこ?」


 僕は誰?

 ふざけて言ってみた言葉は、思っていた以上にしっくりときた。


 ここに来て三日目の朝なのだが、未だに慣れることはなくて、自分が誰なのかも分からなくなりそうだった。



 今まで生きていた中で、自信を持って一番だといえるほどの豪華な部屋。

 天蓋付きのベッドなんて、物語に出てくる架空の家具だと思っていた。

 サラサラと手触りのいいシーツ、偽物じゃない羽毛の布団、そんなに使えない大量の柔らかい枕。

 どんな高級なホテルや旅館だって、ここまでハイクオリティのものは揃えていないだろう。


 贅沢すぎて居心地が悪くなる。そんな僕は、根っからの庶民だった。


「……起きよう」


 くだらないことを考えていたおかげで、眠気はほとんど覚めた。

 僕はベッドから起き上がると、壁にかかっている時計を見る。


 五時四十五分。


 いつもと同じ時間。

 どんなに夜更かしをしても、同じ時間に起きてしまうのは便利でもあるし、時として面倒でもある。


 今は早起きをしなくても別にいいので、面倒だ。

 もう少し寝ておきたいところだが、二度寝が出来ない。このまま諦めて、起きるしかないというわけだ。


「散歩でもするか……」


 最初から最後まで独り言のように呟き、僕は部屋を出ていった。

 同室者配慮して、きちんと鍵はかけておく。

 きっと彼は、あと四時間ぐらいしないと起きないだろうから。





 一昨日から、無人島に建てられたこの屋敷に来ているのだが、全ての場所をまだ回りきれていない。

 残りの滞在時間は四日だから、それまでには見ておこうと、今までしたことがなかった散歩を始めた。


 これが精神的にも身体的にも効果があり、都会の喧騒に疲弊していた僕は、毎朝清々しい気持ちを送っている。

 屋敷で働いているメイドさん達は優秀な人なので、植物の手入れは業者を呼んでいないらしい。

 素人目から見ても、庭や木々の手入れは細部までこだわっているので、呼ばなくても十分だろう。


 こういったところも、目を楽しませてくれる。

 永住したいとは思わないが、一週間の滞在であれば良いリフレッシュになりそうだ。


 社会人でも自由のある方なので、仕事のことを気にしなくていいのはいい。

 というよりも、ここにいること自体が仕事の一環なのである。何も遠慮する必要は無かった。


「一週間滞在して、衣食住は確保されて何でも好きにしていいのに、逆にお金がもらえるんだからなあ」


 僕はおまけだったが、それでも給料をもらえる。

 何て楽な仕事なのだろうと思われてしまいそうだ。

 しかし、実際はそこまで楽な仕事ではないのかもしれない。


 僕は、何もしていないけど。



 色々と考えていたら、勝手に足が進んでいて、お気に入りの場所に向かってしまった。

 そこには、今まで見たことが無かった花が咲いている。

 最初見た時は、一瞬アジサイなのかと思ったけど、どうやら違うみたいだ。


 一緒に来ている緋郷ひさとに聞いてみたら、カルミアというらしい。

 だから白、ピンク、紫という色なのか。

 とても綺麗で、時間が出来たらついつい見にきてしまう。

 ここは特に気合を入れて手入れしているのか、いつ来ても雑草一つ生えていないし、全ての花が生命力に満ち溢れている。


 そして、そう思っているのは、僕だけではなかったみたいだ。


「あ、おはようございます」


「あー、おはようございますう」


 カルミアの花が咲き誇る中、埋もれてしゃがんていたのは、この屋敷の客人として呼ばれている今湊いまみなとさんだった。

 僕に気が付くと、いつものようにずれた眼鏡を直しながら立ち上がる。


「えーっと、あなたはえーっと」


「サンタです」


「ああ、そうだそうだあ。サンタさんでしたね。ぷふふ」


 彼女は僕の名前が気に入っているみたいで、きちんと覚えてくれていないけど、教えるたびに楽しそうに笑う。

 今も、全身を使って体を横に揺らし、ボサボサの髪を更に乱している。


「今湊さんは、ここで何をしているんですか?」


 出会ってから、まだ少ししか経っていないけど、彼女の性格は何となく分かっているつもりだ。

 よく言えば天然の不思議ちゃん、悪く言うと変人。

 まあ、変人なのは他にもたくさんいるけど、純粋な変人は彼女だけだった。


 そんな彼女をこのままにしておくと、話が進まない。

 世間話でもしようと、どうでもいい話題を振ってみた。


「ここで何をしているって。それは、あなたも同じですよねえ。お花を見に来ただけですよお。ここが、一番綺麗ですからあ」


 本当にどうでもいい話題を振ってしまったせいか、ぼんやりとした表情の中に、少し不審者を見るかのような色が混じった。


「ええ、そうですね。ここは、とてもいい場所ですよね。僕もお気に入りで、よく来ているんです。まさか、今湊さんもそうだったとは思いませんでした。今まで会わなかったから」


 別にどう思われようと勝手なのだけど、まだ滞在期間がある。

 円滑な人間関係を維持しておく必要が、まだある。

 僕は好意的な笑顔を意識して、更に話を続けた。


「そういえば、この花が何か知っていますかあ?」


 僕の努力は、微妙に話をそらされる。

 しかし大人な対応は、怒るということじゃない。


 僕は笑顔を固定する。


「知っていますよ。確かカルミアですよね」


 知ったのは昨日のことだけど、それがバレないように知識をひけらかした。


「へえ。知っているんですねえ。珍しい。だから私は、ここが好きなんですよ」


「……だから?」


「この場所に、とてもぴったりな花じゃないですかあ。この花を見て、色々と考えると、楽しくなります」


 彼女の話は、よく分からなかった。

 まあいつもの天然発言なのだろうと考えて、僕は深くは考えないようにした。


 いちいち全てを受け止めていたら、ここではとてもじゃないけどやっていけない。

 一昨日から過ごして分かった、僕なりの処世術だった。


 それにしても、今湊さんは一体いくつなんだろうか。

 初日に軽い自己紹介はしたけど、年齢までは誰も言わなかった。

 他の人は見た目で、大体の年齢を予測できる。

 しかし今湊さんだけは、十代でも通用するし、三十代と言われても納得しそうだ。


 何回か聞きたい衝動に駆られたけど、さすがにデリカシーがないので止めておいた。

 いつか、それとなく聞き出そうとは思っているが。


「私は、ここが大好きですよお」


「……そうですか」


 花の一つに顔を寄せた今湊さんは、香りを楽しむかのように勢いよく息を吸い込んで、無邪気に笑った。

 僕は曖昧な返事をする。


 その意見には、今のところ同意する気にはなれなかった。


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