ルームメイト、オールライト
佐井識
ルームメイト、オールライト
日本から遥か遠く離れた英国で、これから暮らす寮の“先住民”と初めて顔を合わせたとき、見覚えがあるような気がする、と直感的に俺は思った。しかし、そんなわけはない。俺にヴェイラ人の知り合いはいないし、もちろん東南アジアのその小国に行ったこともない。
「ハロー、マイネームイズ、タカシ・ヒラマ」
既視感はさておき、ひとまず名を名乗った。寮の部屋は、共通のリビングやバスルームを挟んで、ベッドルームがふたつあるという構成だった。俺のルームメイトは、自分のベッドルームの扉から半身を出した格好で、じっと黙ってこちらを見つめている。
見知っていると勘違いした原因は、渡航費をケチるために、悪名高い航空会社・アエロフロートを使ったことに端を発するのかもしれない。乗換地のモスクワでお約束のようにロストバゲージし、下手な英語で事情を説明して、何枚もの書類を書き、ロンドンの安宿で不便し、ギリギリで送り届けられた荷物を受け取ってパディントン駅からの電車に揺られ、なんとか辿り着いたオックスフォード大学の寮――古めかしい威容について比類なき誇り高さを感じさせる――で、自分と似た肌の色のアジア人に相見えた。それで安心し、知り合いのように感じてしまった、この説はそれなりに論理的だろう。
「フロムジャパン。ナイストゥーミーチュー」
彼は俺より3~4歳若く見えたが、欧米人が口をそろえて言うように、アジア人の年齢はわかりにくい。目元が涼しく、鼻筋が細く、全体的にシャープで繊細な印象だったが、不思議と年輪を重ねた哲学者のような気配もしていた。
とはいえヴェイラなんていう辺境の出身だ、自分と同じくらいの英語レベルだろう。そんな気安い思いは、完璧な発音で裏切られた。
「俺はジェイル・ジャネイラ、環境学の院生だ。さっそくだが共同生活を送るうえで、確認しておきたい。ゴミ捨ては週2回、俺が火曜、そっちが金曜を担当する。コンロはひとつしかないから、凝ったものをつくりたいときはフロアの共用キッチンを使う。洗濯はランドリーでそれぞれ。23時以降は、客の出入りは控える。同じくテレビや音楽を聴くときはなるべくイヤホンをする。互いのプライベートには立ち入らない。以上、なにか問題があれば、速やかに言ってくれ」
条件は明確、発音も教科書のように明瞭だった。それがかえって慇懃無礼な印象を与えた。
「気難しそうな男だな」
つい、日本語でつぶやいた。
「なにか?」
「いや、なんでもない」
俺は大げさに肩をすくめて、「よくわかった、問題ないよ。お互い大人だからな。俺は生まれて初めての留学だからいろいろ世話になるかもしれないけど、うまくやろうぜ、マイ・ブラザー」と右手を差し出した。控えめに握ったあと、ジェイルは再びこちらをじっと見て、自問自答するような声音で言った。
「日系人ではないよな? 南米あたりの」
フロムジャパンという言葉が伝わっていなかったのだろうか。
「生まれも育ちも、東京の江戸川区ってところだよ。ソーケーユニバーシティーで安全保障を専攻していて、学内奨学金でオックスフォードに来た。年齢は27歳。趣味は飲酒と麻雀。ポーカーもやる。なにか質問あるか?」
「いや、十分だ」
ジェイルは会話を終わらせようとしたが、俺のほうが「南米って、いったいなんだ?」と食いついた。しばらく黙ってから、彼は言った。
「日本人は正しい英語が話せるのに、引っ込み思案なタイプが多い。一方、あんたは英語が下手だが、態度はラテン的だ。実際、スペインなまりがある気がした」
初対面の相手を、いきなり分析かよ。面倒な奴と同室になったのかもしれない。
「ラテン的って、態度がデカいって意味か? それは俺が元ヤンキーだからだよ。ゲットー育ち、高校中退でね。ついでにスペイン語なまりがあるとしたら、留学前に集中講義してくれたフィリピン人のアンジェリーナちゃんの影響だろうな」
相手が何か言う前に、「こっちも分析してやろうか」と畳み掛ける。凝った言い回しはできないから、一文一文を積み重ねた。
「英語にまったくなまりがないから、幼い頃から――おそらくインターナショナルスクールで仕込まれたものだろう? いいとこのおぼっちゃんだ。東南アジアでそんな教育を受けられるような金持ちの子息の院生なら、寮じゃなく高級アパートを選ぶ。だが貧乏学生の俺と同じこの寮だ。てことは、さしずめ、親の反対を押し切って帰国を伸ばしてるってとこか? ジェイル・ジャネイラ君」
ジェイルは露骨に警戒する目つきになった。ある程度、図星だったのだろう。俺は戦闘モードをゆるめて、笑顔をつくった。これから寝食を共にするルームメイトと、わざわざ険悪になりたいわけじゃない。
「心配すんな、元ヤンだからって、おぼっちゃんをいじめたりしないよ」
ジェイルは引き続き難しい顔をしている。冗談が通じないタイプの人間なのかもしれないので、わざわざ「ここ、笑うところだぜ」と解説してやる。ふ、とジェイルは口元をゆるめた。俺の冗談は一応伝わったらしい。
初対面の挨拶はこんなところでいいだろう。自分の部屋に引き返そうとすると、「やっぱり、ひとつ、質問していいか?」と声がかかった。
「『キムズカシソウナオトコダナ』って、日本語でどういう意味だ?」
英語はもちろん、日本語の部分の発音も完璧だった。
「日本語、話せるのか?」
「いや、コンニチハ程度しか知らない。勉強したいと思っているけど」
どうということもなさそうにジェイルは答えた。これは相当耳がいいのだろう。世界中の叡智が集まるオックスフォードの洗礼を浴びた気がした。
口に出さずに感嘆していると、ジェイルは言った。
「どうせ、ロクな意味じゃないんだろう?」
俺は目をぱちくりさせた。ルームメイトは、お返しとばかりに口角を上げた。
「ここ、笑うところだぜ」
俺とジェイルの共同生活は、おおむねスムーズに始動した。
ジェイルは共有スペースに生活感を持ち込まない男だった。まずそもそも、姿をあまり見かけない。いつも21時頃に帰ってきて、二言三言交わすと、あとは自室に引っ込んでしまう。授業が終わったあと何をしているのかと思ったら、図書館やカフェで読書をしていると聞いて、驚いた。つまりずっと勉強しているということだ。
几帳面な性格らしく、リビングのテーブルに私物を置きっぱなしにするようなこともなかった。おかげで俺は、独り暮らしのように部屋を使うことができた。変わり者でかえって助かったな、そんなふうにすら考えていた。
2か月ほど経った週末の夕方、俺はカウチに寝そべってテレビのプレミアリーグ中継を見ていた。ジェイルは部屋にいるはずだが、いつものように気配を消している。そのとき、俺はようやく勘違いに思い至った。俺のルームメイトは、いくら変わり者だからといって、物音を立てない選手権にでも参加しているのか? それも毎日? そんなわけはあるまい。
俺は立ち上がり、ジェイルの部屋をノックした。ややあって、ジェイルが顔をのぞかせる。
「フットボール、一緒に見ないか?」
「ありがとう。でも遠慮しておく」
「ビールあるぜ」
「スポーツに興味がないんだ」
遠回しなやりとりが面倒になったので、俺は単刀直入に切り出した。
「お前さ、俺に遠慮してない?」
「してない」
そう言いつつ、一瞬間があった。嘘をつくのが下手な奴だ。
「俺は快適にやれてるけどさ、お前は我慢してるだろ? 自分の家なんだからもっとくつろげよ。気を使われるとこちらも気まずい」
思い返してみれば、シャワーを使うタイミングだったり、食事するタイミングだったり、俺が感じていたちょっとした快適さの裏には、こいつの配慮があったのだろう。俺は気づかずにぬくぬく享受していたというわけだ。
「気は、使うものだろ」
ジェイルが反論した。どんな形であれ、ようやく自分の意志を示した。
「最低限の気づかいは必要だけど、これは平等じゃないよ。不満や意見は正直に言ってくれ」
「対等じゃないだろ、もともと」
「なんで?」
「だって、あんたは年上じゃないか」
真面目な顔をして言うので、俺は耳を疑ってしまった。なんてこった、儒教の精神かよ。中世の面影を残す学園都市の寮の片隅に、リトル・アジアが生じていたというわけだ。
「マジで気にすんなよ、そんなこと。同じ院生なわけだし。民主主義でいこうぜ」
デモクラシーと口にしたとき、なぜかジェイルの顔に翳が差した気がしたが、それを無視して、冷蔵庫から取り出したバスペールエールの瓶を胸に押しつけた。
「こっちに来いよ。一緒に飲もう」
「いや、俺は……」
「年長者の誘いを断るのか」
さっそくカードを切ると、ジェイルはずるいと目で訴えながらも、その痩身を現した。まるで天照大神のように。
アルコールが入ると、ジェイルの重い口も少しずつ開いていった。
「気を悪くしてほしくないんだけど」
慎重な前置きをしてジェイルが言う。
「雨が降った日は、玄関のマットで、もう少し靴の泥を落としてほしい」
「そうだよな、すまん。気をつける」
素直に謝ると、安心したらしい。2本目の瓶に口をつけながら、「ほかにも」と続ける。
「夜中にカップラーメンを食べるのはいいとして、食べ終わった容器をそのまま捨てないでくれ。匂いが残る。水でさっと洗うべきだ」
「バレてたか。2回やったかな」
「いや、3回だ」
ジェイルは実家の母親並の細かさで、俺の家事の問題点を次々と申し立てた。こいつ、相当不満が溜まってたんだな――。文句を言われているはずなのに、指摘の的確さが、俺はなんだか面白くなってしまう。
「歯磨き粉もしょっちゅう鏡に飛んでる。しかも広範囲に。踊りながら磨いているのか?」
「ああ、社交ダンス部でね。得意ジャンルはサルサだ」
「嘘つけよ」
ジェイルが歯を見せて笑った。そうすると年相応という感じがした。
ビールがたりなくなったので、ふたりで敷地内のパブに行き、そこでまたしこたま飲んだ。付け合わせはチップスとバーガー。典型的なイギリス留学生として行動したわけだ。
ジェイルは自分自身の話題は避けたが、その代わり、俺の来歴や専攻内容に耳を傾けてくれた。大卒者がほとんどいない家系に生まれたこと。とくに何も考えずに地元の公立高校に進学したが、授業がつまらなくてサボりを繰り返していたこと。喫煙がみつかって停学中、たまたま読んだトム・クランシーの小説で冷戦に目覚め、関連書籍をむさぼるように読んだこと。半年後に高校を辞めたこと。安全保障について本格的に学ぶため、大検を取って進学したこと。
ジェイルは俺のつたない英語の説明にも、忍耐強くつき合ってくれた。俺は久しぶりに、思いきりしゃべるということをした。
眠たい目をこすって部屋に引き上げるとき、楽しかったというだけでなく、安堵している自分に気がついた。慣れない英語での生活と、課される膨大な宿題で、少しばかりホームシックを感じていたらしい。隣を歩くルームメイトに、アジア人というだけではない親近感を、俺は抱き始めていた。
その年のクリスマスと正月、俺もジェイルも帰省しなかった。俺の場合は、8月に渡英したばかりだったからだが、ジェイルが帰らない理由は違っただろう。その頃にはもう、ジェイルが何らかの理由で家族や故郷と距離をおいていることを、俺も気づいていた。
「雪が降ってる」
分厚いカーテンを開けて、俺は部屋から窓の外を見た。
イギリスで越す初めての冬は、思っていたよりも過ごしやすかった。基本的に建物内はセントラルヒーティングという暖房がつけっぱなしになっていて、それはこの古めかしい寮でもそうだった。室内であれば、厚着の必要はない。
ジェイルはリビングのカウチに腰かけて、2杯目のコーヒーをおともに本を読んでいた。
「確かに、降ってるな」
まるで中身のない会話だった。それくらい退屈で静かな冬の日だった。
「面白いか? それ」
俺はジェイルの持つ本に目線をやった。タイトルは『Snow Country』――川端康成の『雪国』の英語版だ。図書館で借りてきたらしい。
「ああ。日本の冬を知らなくても、はっとするような表現がある」
「さすがは上品な知性の持ち主だな」
俺が読むのはもっぱら論文か戦争小説だ。川端康成は一度も読んだことがないし、たぶんこれからも読まない。だがジェイルはおそらく、数年以内に原書で読むようになるだろう。俺が遊び半分で教える日本語を、あっという間にインプットしていた。曰く、「言語学習は勉強ではなく気分転換」なのだそうだ。スイスの寄宿舎時代に、ドイツ語とフランス語も習得済だという。
ふと、尋ねた。
「ヴェイラの冬は、寒いのか?」
ジェイルは首をかしげた。
「どうだったかな」
「なんだよそれ」
はぐらかしたいのかと思ったが、表情を見ると、そうではないらしい。
「13歳からスイスで、18歳からはここだから。俺にとってはヨーロッパの冬のほうが身近になった」
彼は窓の外の雪景色を見たあと、手元の本に視線を落とした。
「違う国の冬に詳しくなるばっかりで、俺はだんだん、故郷を忘れている気がするよ」
それがどういう感覚なのか、俺にはわからない。
その日、ジェイルがシャワーを浴びている間に、俺は日本にいる恋人に電話をかけた。向こうはまだ朝の7時で、真穂は「時差を考えなさいよ」と文句を言っていたが、故郷に電話するのを、俺はなんとなくジェイルに聞かせたくなかった。同時に、実家暮らしの彼女の背後から、生活音が聞こえるとほっとした。
俺のルームメイトを取り巻く世界は、ときどき静かすぎる。むしろ彼は、自分からそこに閉じこもっているようにも見えた。
3月、第2学期が終わった。日本とは比べ物にならないほどの課題や発表をなんとかこなし、ようやく訪れた休暇だ。せっかくヨーロッパにいるうちにと、俺はスペイン一周の旅に出ることにしていた。
旅行出発の前日には、お疲れ会と称した、日本からの留学生が集まる会合があった。まともな刺身や焼き鳥を出してくれる日本料理店で、自分の授業がいかに大変だったかに始まり、イギリス人の習性についてやら、最近の北朝鮮情勢についてやらについて、とりとめもなく喋って飲む。解放感でビールがよく進んだ。
揚げ出し豆腐に舌鼓を打っていると、経済学部に社会人留学している女の子が、「そういえば」と話を振ってきた。
「平間さんのカレッジって、王族の人がいるらしいですね」
大学のキャンパスで、サウジアラビアあたりの第何王子といった人種を見かけることはある。しかし俺が暮らす寮で、潤沢なオイルマネーの気配を感じることはなかったし、黒服のSPとすれ違ったこともない。
「見たことないな。勘違いじゃない?」
「同じクラスを取ってた人から聞いたから、本当のはずです。東南アジアの、どこかの国で」
尋ねておきながら、肝心なところが思い出せないようだ。
「王族ってことは、タイ?」
男子学生が助け船を出すが、彼女は首を横に振る。
「そんな有名な国じゃなくて、もっとマイナーなところでした。うーん、どこだったっけな……」
しばらく待ったが正解が出てこず、いつの間にか別の話題に移った。
お開きになるとみんなで大学の敷地に戻り、それぞれの寮へと散らばっていった。俺は口笛を吹きながらひとりで歩いていた。尻ポケットの携帯電話が震える。見ると、さっきの女の子からメールが届いていた。
今日はお疲れ様です!:D という文言のあと、こう続く。
《ちなみに思い出しました。ヴェイラでした》
この期に及んでまだ、俺は「へえ」としか思わなかった。この寮に、ジェイル以外にヴェイラ人がいたんだな、と。
寮の廊下を渡りながら、携帯電話で「ヴェイラ 王族」と検索してみる。民主化の記事が出てきた。そういえば、あの国は5年前くらいに王制を廃止したはずだ。ということは、いるのは元王族ってことか? そう思いながら、表示された最後の国王・レックス2世の画像を目にしたとき、文字通り息が止まった。
混乱した頭のまま、俺は部屋のドアを開く。リビングで映画のDVDを見ていたらしいジェイルが、一時停止ボタンを押して、こちらを向いた。
「お帰り。遅かったな」
どことなく高貴さを感じさせる頬から顎の線。知性と思慮深さ、そして年齢に見合わぬ峻厳さを宿した切れ長の瞳。
「明日からスペインだろ。荷造りは済んだのか?」
この顔に、見覚えがあって当然だった。新聞やテレビで目にしていたのだから。でも普通、気づくかよ。だってまさか、ルームメイトが。
「お前、レックス2世なの?」
考えるより先に、俺の口は動いていた。
そのときのジェイルの顔を、俺は忘れることはないだろう。まるで人を殺した過去を暴かれたような、そんな顔をした。恐怖、恥辱、悔恨、そして絶望。
しばしの沈黙のあと、ジェイルはカウチから立ち上がり、一度も俺の目を見ずに、自分の寝室へと消えた。ようやく我に返った俺が「おい、ジェイ」とかけた声など、まるで存在しなかったように。
俺は俺で部屋に戻り、パソコンを立ち上げた。
政治学研究者の端くれではあるが、ヴェイラ民主主義共和国については通り一遍のことしか知らない。インドシナ半島のエアポケット的な位置にある小国で、俺の専攻である安全保障上はあまり意味を持たない。主にその地の利によって欧米列強や日本の侵攻を避けることができたが、国としてはその時代がピークだった。第二次世界大戦後は経済的な伸びしろに欠け、多くの発展途上国がそうであるように、汚職が横行し、王室の権威も失われていったと聞く。
2002年の東ティモール独立をはじめ、ミレニアム前後は国家の体制変動が多かった。ヴェイラもそのうちのひとつで、単に来るべきときが来て民主化したと俺は認識していた。最後の国王が17歳というのは珍しかったが、だからといってその後どうしているかなんて、考えたこともなかった。
マウスをせわしなく動かし、王制時代のジェイルの写真を見る。線の細そうな印象は昔からだが、まだあどけなさもある。酔いはすっかり醒めていた。クリックする手が止まらず、俺はしばらくパソコンから離れられなかった。
それでも夜が深まるに従い、興奮は落ち着き、代わりに、リビングを挟んで沈黙する男のことが気がかりになってきた。
明日まで顔を合わせずに旅立てば、2週間近く部屋をあけることになる。そのあと戻ってきて、何もなかったかのように接するのは、俺の性格的に無理だと思った。そしてそれ以上に、旅行から戻ったとき、ジェイルがいなくなっているのではないかという予感。
リビングを横切る。ジェイルの部屋の電気は消えているようだった。
「ジェイ、話がしたい」
沈黙。俺は気にせずにノックを繰り返した。
「起きてるんだろう?」
何度か呼びかけると、観念したように返事があった。
「寝てる」
やっぱり起きていた。
「なあ、さっきのこと、謝るよ。急に聞いて悪かったな」
ドアの向こう側の暗闇に、俺は呼びかける。
「この寮にヴェイラの王族がいるって話をたまたま聞いたんだ。検索したら、お前の写真が出てきて、単純にびっくりした」
ジェイルは答えない。
「でも、それだけだ。怒らせるようなことをしたか?」
「……怒ってるわけじゃない」
消えかけのキャンドルの火のような声音だったが、それでも芯の部分に、正確に伝えることから逃げたくないという意志を感じた。
ああ、そういうことなのか。ジェイルが嘘をつけないのは、不器用とかバカ正直とか、そんなことじゃない。むしろ頭が良すぎて、誤った伝達をすることが許せないのだ。たとえそれが、自分の首を絞めるとしても。
「じゃあ、なんなんだ?」
答えを聞く前に、ドアが開いた。蒼白という言葉がふさわしい顔色をした元国王が立っていた。
「知られたく、なかった」
ジェイルはゆっくりと、日本語で言った。
「そのために、できるだけ、一般人らしく生きてる」
まるで恥ずかしいお願い事かのように、俺に訴える。
「誰にも言わないでくれ」
「そんなことを心配していたのか? 大丈夫、言わないよ」
即答すると、小さく息を吐いた。逡巡のあと、もうひとつ絞り出すように彼は言った。
「このことで、態度を変えないでくれ。俺は、失いたくない、関係を」
男に対してこんな感情を抱くなんて我ながら驚いたが、俺はジェイルを可愛いと思ってしまった。手のかかる弟のように感じたのかもしれない。この人付き合いの下手な男を、守ってやりたいとすら思った。
「オーライ、わかってるよ。お前は俺のルームメイトだ」
俺はわざと英語で軽く返した。ジェイルの頬に少しだけ生気が戻った。
「この際だから、ついでに聞いていいか?」
ためらいながらも頷いたのを見て、俺は尋ねる。
「お前って、童貞?」
意味が理解できなかったというように、ジェイルが目を見開く。弱みを握ったつもりなど毛頭なかったが、話の流れ上、答えなければならないと思ったのだろう。ジェイルは頭を重々しく振った。
「学部時代、ガールフレンドがいた」
「あ、そうなんだ。どんな子?」
「ダブリン出身で、史学専攻……。ちょっと待て。これ、今までの話に関係あるのか?」
「いいや、別にない。ただの好奇心だ」
ジェイルが汚いものを見るように俺を凝視し、聞き取れない言葉で何かを言った。おおかたヴェイラ語で「畜生」あたりの文句だろう。
「俺がいない間、女の子を連れ込んでもいいぜ」
「するか、バカ」
「荷造りが全然終わってないんだ。部屋に戻るわ。じゃあ、おやすみ」
歩きかけて、憤然としているジェイルに振り返る。
「土産はシェリー酒の予定だ。一緒に飲むのを楽しみにしているからな」
言いたいことは伝わったらしい。ルームメイトの表情が、かすかに和らぐのが見えた。
寄宿舎時代からの友人や、担当教授など、ジェイル・レックス・ハッサ・チュンクリットであることを隠さないでいい相手も何人かいたらしい。それでも、いちばん近くで生活するルームメイトに隠し事を抱えているというのは、大きなストレスだっただろう。
その後も俺は国王時代の話に触れることはなかった。個人的な興味でヴェイラの軍備について訊いたりはしたけど、その程度だ。別に気を使っていたわけではなく、単に関心がなかっただけだが、それがジェイルにとってはラクなようだった。
あっという間に年月は過ぎ、俺の帰国の季節がやってきた。日本へのフライト前夜、最後まで残っていた私物を段ボールとゴミ袋に仕分けていたら、いつの間にか隣にジェイルがいた。
「これは必要?」
「捨てる」
「わかった」
3年も一緒に暮らすと、コミュニケーションが最小限で済むことがある。そういうときは、もはや英語も日本語も関係がない。おかげでひとりでは夜中までかかりそうだった作業を、1時間弱で終えることができた。
余った時間で俺とジェイルは、4分の1ほど中身が残っていたスコッチウィスキーを舐めることにした。ベランダに出ると、7月の南イングランドの風が吹いてくる。乾燥していて、肌に心地よい。もうしばらく味わえないだろうそれを、琥珀色のアルコールのつまみにする。
「ここで3年も暮らしたとはね。あっという間だったな」
ジェイルに聞かせるというよりは、自分自身に向けてつぶやいた。帰国後は、元いた研究室に復帰して助教をやることになっている。留学という、学業に従事する者にだけ許されたロング・バケーションがいよいよ終わるのだ。
「日本に帰ったら、真穂さんと暮らすんだろ。洗面所の水はねに気をつけろよ」
「努力する」
「結婚するのか?」
俺は30歳、真穂は32歳になっていた。「だろうな」とあいまいに答えると、ジェイルが言う。
「真穂さんは、お前にはもったいない女性だ。愛想をつかされるなよ」
「へいへい」
俺は指先でグラスの氷をかき混ぜる。カラカラと音が鳴った。
「お前は、結婚しないの?」
ジェイルは鼻で笑った。
「するわけがないだろ」
その言葉に複雑な意味が込められているのを知っていたが、あえて拾うことはしなかった。
しばらく黙って酒を飲んだあと、ジェイルは「俺は、論文を書く」と言った。
それはきっと、大変な作業になるだろう。だが俺たち研究者は書くのが仕事だ。とくにジェイルのような者は書くべきだ。自分と向き合うのがどれだけつらくても。
「ようやく大先生のお出ましってわけだ。それをもって講師になるのか?」
「わからない。でも完成したときは、ここを出ると思う」
俺はまじまじとジェイルの横顔を見たが、ジェイルの目線は生い茂った緑の向こう側、静かな暗闇に注がれていた。
長くオックスフォードの住人であるジェイルは、俺がいなくなった後も学園内で生きていくのだと思っていた。正直なところ、外の世界で生きている姿がイメージできない。彼にとっても、ここを去るというのは、相当の決意があってのことだろう。
「まあ、どこに行くにしても、教えてくれよ」
言ったあとで、踏み込んだ発言だったかなと思ったとき、ジェイルがこちらを向いた。
「当然だろ、ルームメイトなんだから」
明日からユーラシア大陸を挟んだ島国に離れ離れになるなんて、まるで思ってもいないような顔つきだった。俺はげらげら笑ってしまったが、別に茶化したわけじゃない。ただ単純に、嬉しかったのだ。
帰国してから3年後、うまい具合にポストがあいて、俺は母校の准教授になった。ジェイルはその頃すでに、オックスフォードを離れてヴェイラに移住していた。
昇進をメールで伝えると、わざわざ電話がかかってきた。奴にはそういう律儀なところがある。
「お前みたいな不良教師がゼミをもつのか」
憎まれ口を叩きながらも、ジェイルが喜んでくれているのは十分伝わった。
「入るのは、ロクな学生じゃないだろうな」
「本質を見定める目があるってことだろ」
「よく言うよ」
もちろん俺もジェイルも、そのロクでもない女子学生が、数年後にジェイルの運命に乱入するなんて、想像もしていなかったわけだが。
「ジェイ、俺だ。突然だが来週、12月第2週の週末、あいてるか?」
大学の研究室で、俺はスマートフォンに向かって話しかけた。右手でデスクに積まれた紙の山を押しのけると、ずささささと雪崩が起きる。あとで片づけることにして、発掘した卓上カレンダーをめくった。
「クアラルンプールで学会があるんだが、その後の予定が飛んだんだ。日曜に日本に戻ればいいから、弾丸でヴェイラに行こうと思って。LCCなら往復1万円くらいだろ?」
いまどきは国際電話だろうが無料で通話できるからありがたい。時代遅れの元ルームメイトが、ついにスマートフォンを導入したおかげだ。ジェイルが手帳をめくる音に続き、「大丈夫、あいてる」と返事が聴こえた。俺はさっそくパソコンで、航空券比較サイトを立ち上げた。
「決まりだな。なにか持ってきてほしいものとかあるか? 帯沢さんから預かるものとか」
今では彼の妻である女性のことを、俺はつい名字で呼んでしまう。本来なら下の名前にさん付けにすべきだろうが、いまだに個性的なゼミの教え子という感覚が抜けない。
「ホテルは適当に取るよ。え、泊めてくれるのか?」
ジェイルは長年住んだ家から引っ越していた。結婚し、しかも身分を明かして著作活動をしている今、さすがにノーセキュリティのアパートでは問題があったらしい。とはいえ祖母の遺産である郊外の邸宅は国に寄付し、本人は首都中心部の賃貸で暮らしている。それがヴェイラ最後の国王の流儀なのだ。
「ありがとう、とっておきの日本酒を持っていくよ」
俺は椅子の背もたれに体を預けた。ブラインドの隙間から差し込んだ冬の陽気が、本を積み重ねたタワーに被ったホコリまでも照らし出している。
「ちなみに、そっちの気候はどうだ? どんな服装で行けばいいか教えてくれ」
乾季だから雨は少なく過ごしやすいが、念のため上着はあったほうがいい、朝は首都でも寒い日があるなどと、ジェイルは丁寧に教えてくれた。一通り聞き終えて、俺の脳裏にふと、15年も前の、とある冬の日の会話がよみがえった。黙って反芻していると、ジェイルが怪訝そうにする。「なんでもない。じゃあまたな」と言って、俺は電話を切った。
お互い、たまには仕事も家族も置いておいて、学生気分で飲んだっていいだろう。世界は広くて狭く、人生は単純で豊潤。40歳前後の男同士で、そんなことをしみじみ味わってもいいだろう。
赤ペンのキャップを外し、カレンダーに丸をつけた。冬のヴェイラでルームメイトに会えることを、俺は、本当に楽しみにしている。
ルームメイト、オールライト 佐井識 @saishiki
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